藩主田村家菩提寺 祥雲寺
天和元年(1681)宮城県岩沼から一関に所替えを命ぜられ入部した三万石を所領して以来一関藩政は明治4年の廃藩置県まで190年間連綿と続いた 
手前が芭蕉の道迫街道でその分岐点にあり芭蕉もその前を通過して岩出山へ向かった 日本の道100選の道だ

 赤穂藩主浅野内匠頭長矩公供養塔 祥雲寺 
不思議な縁である 初代藩主田村右京太夫建顕公がたまたま江戸で幕府奏者番をしていたときに「松の廊下」の事件が起きた 
吉良上野介に対する刃傷沙汰事件で内匠頭は江戸田村藩邸に預かりの身となりその後日田村邸庭先にて無念の切腹をさせられた

医者建部清庵の墓 祥雲寺
1712~1782
 初代清庵元水の次男初めの名は由正で代々清庵を号し医業をもって一関藩に仕える 19歳で仙台遊学 後に藩主田村村隆公より学費を賜り江戸遊学独力で和蘭医学を極める 民間備忘録 備荒草木図を現す
左・下 伊達兵部宗勝一族の墓
 願成寺
中世磐井の里は葛西氏により400年間にわたり支配されていたが秀吉の奥州仕置きで一瞬にして滅亡しその後伊達氏の所領となる

 寛永18年
(1641)政宗の十男伊達兵部宗勝の領地となり伊達氏の内分家大名となる
➡浅野内匠頭辞世の歌
風さそふ 花よりもなほ われは又  
     今日の名残りを 如何にとやせむ

これに対して大石蔵之助の辞世の歌は
あらたのし 思いは晴るる 身は捨つる 
          浮世の月に 曇る月なし
極楽の 道はひとすじ 君ともに 
       阿弥陀をそへて 四十八人
とあると云うのです 
 大慈山祥雲寺田村家墓所 
初代宗良
は政宗の孫で政宗の妻愛姫によて絶えていた田村家は再興された 一関潘初代は建顕公である  なおこの祥雲寺は日本最初の樹木葬墓地で遺骨を直接雑木林に埋蔵して石塔の代わりに山躑躅等の樹木を植えて目印とする 仏は花に生まれ変わるのです 

       磐井の里 其の8
     
祥雲寺前の日本の道100選    白馬山願成寺
 ➡彼は名取郡岩沼の田村宗良と共に仙台4代藩主亀千代(綱村)の後見人となる この後見制度が後に藩を二分する政争でる伊達騒動へと発展する このお家騒動の後宗勝は高知藩山内家預かりの身となり土佐に流され宗勝家は断絶した 宗勝家臣や一族の墓は廃寺となった豊谷寺に集められている その後延宝10年(1681)田村氏が名取郡岩沼かから転付された田村宗永(建顕)が初代一関藩主となる