はざま街道 上街道 奥州街道脇往還ともyばれてる
鄙びた街道であり芭蕉の後を辿るのにはもってこいである
  はざま街道祥雲寺前の分岐点  芭蕉が曾良と共に歩いた迫街道は奥州街道(現R342号)から祥雲寺前で分岐して栗原郡岩ケ崎(現栗駒町)に向かった 文字は読めなかったが下の石の道標には「右ハはざま 左ハせんだい」とある   曾良随行日記には 「元禄2年5月14日天気吉 岩井郡之内一関ヲ立 四リ 一のハザマ・岩ア(栗原郡也)藻庭大隈 三リ 三ノハザマ・真坂(栗原郡也)(此間ニ二ノハザマ有)・・・」とはざま街道の通過地を書いている 
追分石 祥雲寺前 右ハはざま 左ハせんだい

一関〜栗駒町〜岩出山への旧迫街道
 所謂本物の奥の細道である
 上は東北自動車道である 5月2日のGWであり渋滞で車がのろのろの数珠繋ぎである まさに隔世の感とはこの事でしょう この道は矢往時は山形街道と呼ばれ奥州街道の脇往還道として藩政時代には賑わったのです 
  東北自動車道とはざま街道(上街道)が交差する芭蕉と曽良が500年前に歩いた寂しい道 想像できないぐらいの時代格差です
      この標識を500mも行くと一対の一里塚があるという それが刈又の一里塚だが車では行けなかった
磐井の里 其の9
  藏主沢のはざま街道 
ここからの上り坂は女ころし坂と呼ばれていたがもはや道なき道となっている