
源頼義・義家を黄海で迎討った安倍貞任の河崎の柵の跡 一関市川崎
旧東磐井郡前九年の役の前半戦のクライマックスは何と言っても黄海の戦いである 東磐井郡川崎町門崎にある河崎の柵は その7~8km程北北西にあり金 為行が守備隊長を勤めていた 官軍出撃を察知した安倍貞任軍4000も衣川を出てここに駐屯したのある 砂鉄川が北上川に合流する地点にあり宝亀11年(780)按察使紀古佐美による続日本記にある➡ |

黄海川
有名な黄海の合戦場 |
左菅原道真公夫人の墓
天才・エリート・学問の神様・反藤原派の管原道真はライバル藤原時平の讒言により九州太宰府に流されたのは皆さんご存知だが、果たしてその奥様が陸奥に流されたのは余り知られていない 磐井の里東山町に最近新築されたお堂がある 何とこれが道真夫人の墓なのだ 近年 福岡太宰府天満宮宮司夫妻が見えられ紅白の梅3本を植えた由 さらに北野天満宮宮司寄贈梅もあるのです 立派過ぎるご主人を持った不幸とでも言おうか白百合が一際可憐であった
三大怨霊は将門 崇徳上皇 道真だが 豪華な天満宮の菅公に比べて菅公夫人のお堂の落差は大きい 夫人の怨み節が聞こえそうだ |
それにしても磐井の里の山中に道真公の奥さんの墓があるとは驚きました |

宮澤賢治のが働いた国有形登録文化財産業近代化遺産第一号登録 東北砕石工場 JR大船渡線陸中松川駅から工場までのこの道こそ賢治が通ったデクノボーの道なのです 昭和53年まで営業していました旧東磐井郡東山町にある東北砕石工場(石灰岩を粉砕して肥料を作る)で彼が2年間技師として勤務していたが病の為37歳で死去した 今は石と賢治のミュージアムとして解放されている 東京大学安田講堂や香川県の金比羅宮宝物館とともに産業近代化産業遺産に指定された
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➡覚鱉城跡とも擬定されてる 下の絵は旧国道284号(現県道168号)の山の側壁のコンクリートに描かれた河崎の柵の貞任出撃の様子だろうが中々ユニークで面白い 上部にはかわさきの柵と書かれてるが全体に色がはげ落ちていてそろそろリニューアルが必要だ  |
旧東磐井郡藤里町の黄海の合戦の絵 逃げる頼義・義家と追う安倍貞任
安倍貞任軍が源頼義・義家軍を完膚なきまでに打ち破った黄海の里 天喜5年(1059)11月の厳冬の出陣と云う武神義家の判断ミスで2000名の部下を失った 生き残ったのは僅か7名のみだった
磐井の里 其の6
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群像の広場の蝋人形 石と賢治のミュージアム 一関市東山町
昭和6年工場技師となった賢治が訪れた時に賢治を中心に鈴木東蔵(社長)と工場の人々が撮った記念写真 その時の写真を元に作られたのがである 後列右から4人目が宮澤賢治です 有名な「雨ニモマケズ 風ニモマケズ・・・・」の詩も何とここの営業マン時代末期の心境だったとは知りませんでした 農業者時代の詩ばかりと思っていたのです 現在のセールスエンジニアーの魁の賢治であり セールスマンとしてもトップセールスマンで石灰石粉の商品名を肥料用炭酸石灰(タンカル)とネーミングした 彼はここで過労死した この田舎で賢治に逢うとは驚きでした |