万年山宝徳寺 啄木が1歳から18歳まで住み盛岡中学(現盛岡一高)時代の多感時代を過ごした 中には啄木の部屋が啄木の間として整備されている 此の部屋で啄木鳥の木霊や檜葉の木で鳴く閑古鳥の声にその感性を高めたに違いない きつつきから後のペンネームの啄木とし寺の前に檜葉の大木の下にある歌碑には下の歌碑がる
ふるさとの 寺の畔の ひばの木の いただきに来て 啼く閑古鳥
下左 石川啄木生誕之地碑 常光寺 (現玉山村) 友人金田一京助の揮毫による
下右啄木第1号歌碑 やはらかに 柳あおめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに |
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右 新装なった好摩駅
ふるさとの 訛りなつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく(但し上野駅) 好摩駅長と話したら『地元では余り評判がよくないのですよ』には思わず苦笑させられた 確かに明治39年4月渋民の代用教員は1年・函館の弥生尋常小学校代用教員は2か月・函館日日新聞社は何と7日・札幌の北門新報社僅か17日・小樽日報社に2か月・釧路の釧路新聞社に3か月そして明治42年3月に東京朝日新聞社に採用された 真に腰が落ち着かない短い日数にも拘わらず女性にも絶え間なく関心が深く北海道釧路の小奴は有名で(小奴と いひし女の やはらかき 耳朶なども 忘れがたかり)とメロメロで 函館弥生小学教員時代には8人の女性教員を観察していて殊に橘智惠子にはまっすぐに立つスイトピーの花の様で(かの時に 言ひそびれたる 大切の 言葉は今も 胸にのこれど)と詠んでいる 札幌では下宿の娘田中ヒサとのロマンスがあったり 東京時代の菅原芳子には(逢ひたきに耐へぬ夜 君と相抱きて 一夜なりとも深き眠りに入らんとする夜 我はその写絵を抱きて一人寝なましものを)など熱烈な恋文送っている 文筆家の彼独特の殺し文句に女性はひとたまりも無かったのだろうか そこからは(働けど働けど なお暮らし楽にならざり じっと手を見る)や(たはむれに 母を背負いて そのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず)の歌からは想像出来ないのです そんな女性遍歴を(人ひとり 得るに過ぎざる 事をもて 大願とせし あやまちやよし)と詠んでいるのもプレイボーイらしい所だ 当時の村人の感情からすれば確かに駅長さんの言葉の意味も分るが文筆家・芸術家等の心情としてはままある性格でしょう
右 好摩駅 啄木が函館や東京へ旅立つ時に利用した当時は現在の渋民駅は未だなかった
左 渋民尋常高等小学校と斎藤家
1年間日本一の代用教員の小学校と間借りしていた斎藤家 学校は明治17年10月650円で建てられた 啄木は明治24年4月に入学している 明治39年4月に代用教員となり翌年5月には退職している 建物前には啄木と節子の歌碑がある
時として あらん限りの 声を出し
唱歌をうたふ 子をほめてみる
この舟は 海に似る瞳の 君のせて
白帆に紅の 帆章したり
岩手の里 其の8
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