平泉を捨てた泰衡は北海道へと逃亡企てた 其の途中出羽比内郡贄の柵で部下河田次郎を頼ったが河田は逆にかっての主君の首を刎ね意気揚々と頼朝の待つここ陣ケ岡へとやってきてこの池でその首を洗い頼朝へ差出した 当然賛辞と恩賞をを期待していた彼に下されたのは斬首でした 譜代の恩を忘れた八逆の大罪として之から来るべく武家社会の主従の関係の見せしめとしてしまった   これとは対照的なのが捕虜となった由利八郎である  彼は尋問した梶原景時の無礼には一切答えず止むを得ず→   高水寺城址 紫波郡紫波町   紫波町高水寺城は斯波氏の居城である 斯波氏は元々清和源氏足利氏の一族足利泰氏を父としてその子家氏が志波郡に転封されたので斯波氏を名乗り宗家・家貞・高経と続く そして高経の弟家兼の子直行が後の奥州探題大崎氏となりもう一人の子兼頼が羽州探題最上氏となる 斯波氏は正に名門なのである 又泰氏のもう一人の子頼氏から家時・貞氏・尊氏となり後の足利幕府を開くのである  頼朝亡き後実朝・頼家で源氏の正統が絶え北条氏が執権政治を始めると妥協の産物として源氏の大族足利氏を源氏縁の陸奥志波の地が足利氏にもたらされたのではないか 南北朝時代は勿論陸奥の北朝方として南朝の勇新田義貞を打ち破り足利一族の中でも別格の家格で将軍同格ともいわれていた  然し三戸南部氏との抗争で次第に衰えを見せ天正16年(1588)8月には南部氏に占領され郡山城と改めた 
  蝦夷の衝角付鉄製兜 田蝦夷森古墳群出土
盛岡市黒石野    盛岡市遺跡の学び館展示
凡そ1400年前の 大和朝廷軍に敗れた蝦夷の無念を思わずにはいれない遺品だ  遺跡の学びの館の許可を得て掲載 残念ながら上田蝦夷森古墳群見つけられなかった


岩手県指定史跡藤沢狄森古墳群 矢巾町
7世紀末期の古墳で100基以上が確認されてる
  蜂神社表参道入り口  陣が岡 紫波町
前9年の役
頼義・義家はこの地に陣を張った その戦勝を祈願して大和国の三日月堂から勧進したのが蜂神社 厨川柵周辺の藪にたくさんの蜂の巣があり兵が刺されて困った それを見た頼義軍は夜間蜂の巣を袋に取り蜂を怒らせてから貞任陣営に投げ込んだ 蜂が一斉に貞任軍を襲うと同時に攻めかかり勝利をおさめた。
→下へ






岩出の里 其の4





左下から→ 源氏の日・月の旗と同じ黄金の満月と三日月が輝いたと言う これは吉兆なりとその池に満月と三の中島を造せた これが日の輪・月の輪形の由来なのです その後秀衡がその故事を聞いて勿体ない偉業と感服し再度其の中島を修複させたのです その形が今も残っている貴重遺跡です
→畠山重忠が丁重に尋問をした結果頼朝も直接面談を望んだ 頼朝は泰衡の弱腰を詰問した所由利は『それを言うなら貴殿の父義朝平治の乱で東海道15カ国を有しながら1日も支えられず殺されたではないか どっちもどっちではなか』と反論した 頼朝は二の句も出ず所領安堵を認め鎌倉後家人となった 今も秋田県には由利郡由利町がある   陣ケ岡の麓にある泰衡首洗いの池 紫波町陣が岡 高水寺と走湯神社(隣り合わせ) 高水寺城跡の麓
 神社の説明版には吾妻鏡の一説の『今日陣岡を発たれた 今までここに七日間逗留された ところで高水寺の神社は頼朝が信ずる走湯神社を伊豆から勧請したものだがその傍にも小さな社があり大道祖と言った これは清衡が勧請したもである この社後ろに大きな槻の木があった二品(頼朝)はこの木の下に立つと走湯神社に奉納すると称して上矢の鏑二つを射立てられた』とある
上から→勝利を導いた蜂を祀つた社が蜂神社 蜂を祭神とする唯一の神社 他に萬亀山千鶴寺跡・八門遁甲陣堀跡・秀衡奥羽一万寺修道聖地跡・安倍頼時陣ケ岡遊楽庭園跡・頼義義家お手植えの杉等数多くの歴史がこの狭い岡にある 

日の輪形・月の輪形 陣が岡
厨川柵の安倍貞任攻略に陣を
いた源氏軍は戦勝を祈願して大和の国から三ケ月雲の三ケ月堂蜂神社を奉遷した すると康平5年9月15日の月の夜に裏の古堤池に→右上へ