最北の延喜式内社志賀理和気神社
桓武天皇の延暦年間田村麻呂が香取・鹿島の大神を勧請奉斎し陸奥開拓守護神とした 現在紫波郡は志波町・矢巾町・都南村だが古代は盛岡市・雫石町迄を含んだ呼称だったようだ 雫石川辺の紫波城が何よりの証でしょう 盛岡市の南にあり現在こそ地味な所だが古代弘仁2年(811年)和我・稗貫と共に建郡され紫波郡は少なくとも9世紀までは日本最北端の地となった 789年(延暦8年)続日本記には子波とあり「子波・和我深奥に僻在する」とある → |

五郎沼 紫波町
中尊寺の泰衡の首を入れてあった桶についていた蓮の種を恵泉女学院短大の永島時子教授が900年ぶりに開花させた古代蓮 頼朝による泰衡首実検のあと長くさらされていたが泰衡の親戚筋に当たる樋爪氏の女達が祖父母の眠る金色堂に密かに運んだ その時五郎沼に咲いていた蓮の花を首の入った桶に添えて運んだのです その後花が種となって900年月日の後に現代の技術で再びこの五郎沼に戻って開花したのです この右に大きな五郎沼がある 又泰衡の首を洗った池が近くの陣ケ岡にある この一帯は樋爪館で樋爪(比爪)氏は清衡の子清綱に始まるのです 館は文治5年(1189)奥州藤原氏打倒で進攻してきた頼朝によって館主太郎俊衡ともども焼失した |
志和稲荷神社 紫波郡紫波町
天喜5年(1075)源頼義・義家が安倍一族征討のため下向し陣ケ岡に滞在中戦勝祈願の為勧請された 珍しい茅の輪がり 中を通ると先ず左まわり 次に右へ回り 最後に再度左を廻て進むのだそうだ 代々樋爪氏・斯波氏・南部氏の尊崇を受ける 稲荷山大杉は周囲14m 高さ45mに及び神社の象徴である 延命長寿を願い白狐の神毛を根元から探す習慣があるという |
岩出の里
其の3

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→延暦11年類従国史には「斯波村の蝦夷胆沢公阿奴志己が伊治村の蝦夷にさえぎられ政府と通じられない」と記し志波郡以前にすでに志波村が存在していた事が続日本記(宝暦7年・776年)にも見える この様に岩手の里志波は見るべき史跡が多いのです 藤原氏一族の樋爪氏の樋爪(比爪)館・泰衡蓮・陸奥北朝の勇斯波氏の居城高水寺城跡・荻森古墳群・義経北帰行伝説等そして圧巻は何んといっても陳ケ岡の史跡です 日本武尊から蒲生氏郷まで陸奥に来た歴代の名将が陣を張った丘陵は心踊る
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左 赤石
天正の昔斯波直三郎詮直公が北上川の川底に赤石の大石を見つけて紫色の水波に漂うその美しさに一首詠んだ
けふよりは 紫波と名づけん
この河の 石に打つ波 紫に似て
この地は古来子波・斯波・斯和・志和等と呼ばれていたが以降は紫波と呼ばれ志賀理和気神社境内に赤石は安置されている 以来神社は赤石神社とも呼ばれている
右 都から下った藤原頼之と志波河東の領主河村少将の娘桃香の悲恋の伝説の桜がある 相思相愛の二人が植えた桜だが任期の満ちた頼之は必ず戻ると都へ帰ってしまった 再会を固く誓った二人だが恋い慕う桃香の心情の如くこの桜は南に向ってしか咲かなくなった いつごろか南面の桜と呼ばれるようになったと云う
南面の 桜の花は 咲にけり
都の麻呂(ひと)に かくとつげばや 桃香 |
南面の桜 志賀理和気神社境内 |

志和古神社 紫波郡紫波町 |
左 志和古神社
志和稲荷神社から700m程の距離にある ここには昭和29年9月台風15号で御神木の大杉が倒れました あの有名な青函連絡船洞谷丸事件の9月29日アイオン台風です その時根元の空洞の中から狐のミイラが発見されました 説明版には古稲荷神社にお使えするきつね様 とありました 然し何故同じ所に同じような神社があるのでしょう |