左 総社本殿
寛永4年建造された流造の社殿 奥州へ向かう途中武運祈願で太田道灌奉納の室町時代の漆皮軍配団扇は県指定文化財 道灌がここで詠んだ歌
曙の 露は置くかも 神垣や
     榊葉白き 夏の夜の月

狛犬には  皇威震 神徳輝 とある
 他に県指定文化財の扁額三十六歌仙絵や常陸総社文書がある
下左 日本武尊腰掛石
これはご愛敬でしょう
下 国指定特別史跡常陸国分寺跡
国分寺は今から1200年前聖武天皇の御代天平13年勅命をもって天下諸国66か所に建てられたもので上古常陸の国府の所在地であった府中(石岡)に置かれた 国分寺は僧寺と尼寺の両方を併せもって国分寺という 僧寺は正式には金光明四天王護国之寺と言い法華経の功徳により国家の安寧を図った 現在この地は真言宗智山派の浄瑠璃山国分寺と言う後継寺院があり往古の面影はない 然も平安中期には平将門の乱により常陸国府は焼かれ国分寺も大きな損害を被り更に佐竹氏と大掾氏との戦いの火災で堂塔は焼失し現在は下の国分寺跡の石碑1本だけあるのみだ 
茨城廃寺跡  茨城廃寺は石岡市貝池にある古代寺院跡で焼く一町半四方の寺域の中には金堂・塔・講堂などの遺構が確認されている 発掘調査により出土した遺物の中に『茨木寺』 『茨寺』の墨書銘のある土器が発見されこの寺は茨木寺と呼ばれていた 建立は国分寺より早く7世紀後半とされていて古代の茨城郡で現在の茨城県の名前の語源となった寺である 跡地は現在この説明板を除いて何もない
上 都々一坊扇歌堂 石岡市国分寺境内 
 都々逸都々一坊扇歌により江戸初期に大成された口語による7・7・7・5の音律をもつ その調子は俳諧・川柳と同じく大衆の即興文学である 久慈郡生まれの子之松(扇歌)は幼少時に病により失明同様になったが芸の道を志し江戸に出た 扇歌は高座にあって聴衆からのなぞかけを即座に解いてしまう頭の回転の速さが江戸の庶民の評判なったが当時の政治や社会を風刺・批判したため江戸追放となった ここ姉の嫁ぎ先の石岡に身を寄せたのでる 嘉永5年(1852)48歳で死亡 昭和8年町内有志により扇歌堂が建立された 市指定史跡
追放の一句は
    上は金 下は杭なし 吾妻橋
だという 『 杭なしは食なし』で 庶民はその日食うのも汲々してるのにお役人は金に明かした生活をしている様を吾妻橋に例えて風刺したもので
 親が藪なら私も藪よ 藪に鶯鳴くわいな
藪医者の息子の子之松が芸人として大成出来るわけがないと叔父に江戸行きを止められたときに唄ったものとされている
 粋な唄も・・・
一人でさしたる唐傘ならば 片袖濡れる筈がない
惚た数から振れた数を 引けば女房が残るだけ
横に寝かせて枕をさせて 指で楽しむ琴の糸
なども・・・

 
  石岡城(外城・とじょう)跡 健保2年(1214)常陸大掾を継承して常陸国衙で政務をとっていた大掾資幹は鎌倉幕府より府中地頭職を与えられてここに居館を構え石岡城としたのが始まりだが今この説明板の他何もない
        恋瀬川 Z