下 芹澤鴨生家 行方市芹沢
ご存じ新選組初代筆頭局長ながら次第に
近藤派との対立から屯所としていた八木邸で妾お梅・平山五郎とともに土方歳三や沖田総司らによって斬殺されます。三十八歳でした ここは芹澤を含む常陸平氏大掾氏一門である芹澤氏の旧宅である 当初彼は幕府浪士組に参加していたが清川八郎とも袂を別けていますから相当個性が強かったのでしょう
上 若舎人部広足歌碑  行方市玉造町
防人に 立たむ騒きに 家の妹が 
業るべきことを 言わず来ぬかも 
            巻20-4364

この地は若舎人部一族の居住地から地名となり中世は若舎人今は若常と書き広足の出身地であった防人としての彼は更に
難波津に み舟下ろすゑ 八十梶貫き 
今は漕ぎぬと 妹に告げこと 巻20-4363
万葉集常陸防人の歌十首のうち2首採用されたのは彼だけである
 西連寺国指定重文仁王門 行方市西連寺
天文12年(1543)建立の櫻門でる 元は2階建てだった 室町時代末期の特有の地方色を残す

下左 国指定重文西蓮寺相隣橙  この相隣橙は天台宗の象徴で日光輪王寺・高野山 延暦寺の橙と共に日本三大相隣橙で弘安十年(1287)元寇(弘安の役)の戦勝記念として建てられたもの 高さ9.12m


   恋瀬川 [

                 
上左 常陸風土記遺構 玉井之跡の碑
石岡市の隣の小美玉市には古代田餘(たまり)の郷の地で現在玉里(たまり)と呼ばれてる地がある 常陸風土記(713)には日本武尊がここ桑原の岡(現大宮神社)にと佇み水部に井戸を掘らせたところ清らかな水が湧出したので『よくたまれる水かな』と云ったのでその後この地を田餘と呼ぶようになり現在の玉里の語源となったと言うのである 昭和20年代までは六か所ほどの湧水があったが今はご覧のようにその面影はない 

左 占部広方万葉歌碑 行方市玉造町
橘の 下吹く風の かぐはしき 
筑波の山を 恋ひずあらめかも  
             巻20-4371

常陸風土記には行方郷と香島郷は橘の木が生い茂り筑波山も見えると書かれている