左 平福寺 大掾氏累代の墓   石岡市
卒塔婆には『春彼岸会為当山開基桓武平氏累代精霊追善供養塔』とある 大掾氏は桓武平氏の宗家で平安時代から安土桃山までの700年間常陸国府を支配した その祖は平国香で天慶の乱で甥の平将門に討たれがその子貞盛が藤原秀郷とともに打ち取ったのは有名だ その後貞盛の甥で後に養子となった維幹が常陸大掾に任命され代々続くことになる 律令四官のうちの三等官の国司で大国の掾を大掾という 職名が後に家名となり大掾氏となった この例は頼朝の奥州征伐で頼朝の奥州代理の留守職が後に留守氏となった伊沢氏に似ている 中央の大きな五輪塔が平国香と言われている  
下左  藤原景清の墓   平福寺
長く平家に仕えたので通称平景清とも呼ばれる 悪兵衛景清の異名を持つ 勿論悪は強者の意味であるが源平合戦で壇ノ浦で敗れ源氏に捕えられた その後の伝承は各地にありその一つがこの供養塔である

下中 国指定史跡常陸国府跡の碑 
石岡市立石岡小学校敷地内にある7世紀〜11世紀の国衙跡であるが今は校庭の下に埋め戻されていて跡影はないが校庭の片隅の小山の大木の下に右の碑が建っている   
    上の碑には『常陸のみやこ二千有餘年』とある 天慶2年平将門がここ常陸国府を襲撃し国司印を奪い炎上させた 朝廷を震撼させた将門の乱は常陸国府襲撃で火ぶたを切ったのでる
上右端 石岡小学校内万葉歌碑 
 
藤原宇合太夫遷往して京に上りし時に常陸娘子に贈れる歌一首  万葉集巻4-521
庭に立つ 麻手刈り干し 布さらす 
      東女を  忘れたまふな

藤原宇合は藤原不比等の三男で常陸守兼按擦使として常陸に赴任し恋仲となった常陸娘が都へ戻った宇合に『田舎娘も忘れないでね』と言った趣旨 
右 常陸総社随身門 
宮内最古の建物 寛永4年ごろ再建  国府が置かれた石岡に新しい国司が赴任すと国内の神社に参拝するのが習わしだが総社は総ての神社を合祀し統括したものでここに参拝すれば国中の神社を参拝した事になる 
 恋 瀬川 Y