転々と見える緑の部分が元は島だったのです 芭蕉は象潟3日間の滞在で潟巡りを楽しんでいた 奥の細道には『…雨も又奇也とせば雨後の晴色又頼母敷と蜑の苫屋に膝をいれて雨の晴るるを待つ 其朝天能晴れて朝日花やかにさし出る程に象潟に舟をうかぶ 先ず能因島舟をよせて三年幽居の跡をとぶらひむかふの岸に舟をあがれば『花の上こぐ』と詠まれし桜の老木西行法師の記念(かたみ)をのこす 江上に御陵あり 神宮皇后の御墓という 寺を干満珠寺と云う…』とあり象潟の名勝の地をまとめている 

➡この能因島は元禄14年(1701)の領主六郷氏に提出された島守届には『めぐり島 願誓坊の墓あり 浄專寺』あり又寛政3年(1791)の届にも『めぐり島 浄專寺』とある ところが寛政7年(1795)の届書には『能因島 浄專寺』になっている この辺りから能因島と呼ばれるようになったらしい つまり本来めぐり島が能因法師伝承を踏まえて美化される形で能因島になったのです (島手前にある能因島由来書より)
左下 右 能因島 ここに能因が3年も住んでいたのは勿論伝承でしょう
 象潟 其の6




象潟大明神
蚶方の神と言われた神社で鳥海山大物忌神社と同神とされている
 社伝によれば天平宝字の頃創祀にして象潟の鎮守とされ象潟神社と称したという  大物忌八島大権現と称して蚶満寺の守護神になったと伝える

➡蚶満寺の裏の標高10mの小山にある神社でかつては八津島神社と記されていた 祭神は豊岡姫命である 能因は此の神社を詠んだ 碑には象潟神祀で豊岡姫命の神徳を称えるとともに荒廃した神社の再興への心情と経緯が彫られている
天に坐す 豊岡姫に 言と問はむ
 
 幾世にならむ  蚶方の神