白瀬の墓 浄連寺 岸信介元総理大臣に揮毫 生家の隣
彼は浄連寺の長男だった 戒名は南極院釈矗往
 彼の死が栄養失調による腸閉塞とは情けない   白瀬像の両脇にあるこのペンギン像はそんじょそこらの像とは違うのです

ぺんぎん像と白瀬中尉  生家の隣
➡ 近代彫刻の祖である文化勲章受章者の朝倉文夫氏の作品で港区の芝浦埠頭公園に設置されていたものだ 然し悪戯でくちばしや羽が破壊されて無残な姿だったものをゆず以受けて原型に忠実に復元されたものでる
 

象潟から凡そ10km程北へ行くと金浦町がある この聞きなれない町だがご存知南極探検の白瀬陸軍中尉の生誕の地なのです 明治45年(1912)1月28日南極の奥地南緯80度5分に到着したが極地にはすでにノールエイのアムンゼンイギリスのスコット隊が一歩先に極地到着を果たした後だった この為極地を断念ここを大和雪原(やまとゆきはら)と命名して帰国の途に着いた 然し晩年は探検後の借金に追われて悲惨な最期を遂げた
 1946年愛知県の現豊田市で白瀬の次女が間借りしていた魚料理の仕出し屋の一室で死去した 栄養失調による餓死だったという 85歳だった 幼少より極地探検を志した彼は生涯酒を飲まない タバコを吸わない 茶を飲まない 湯を飲まない 寒中でも火にあたらない の5か条を生涯徹底したという 然し気持ちは分るが現在では後ろの3っつはあまり感心できない 精神論で事の成就はおぼつか無い

愛知県豊田市に白瀬中尉終焉の地の碑がある


象潟 其の7


白瀬中尉の生家 秋田県にかほ市
浄連寺の隣の白瀬の末裔が今も住んでいて表札には白瀬とあった

南極探検にに使用した実物大の僅か204トンの海南丸 にかほ市黒川
白瀬南極探検隊記念館 東郷平八郎の命名による 乗組員は27名だった