伊加古ロードの碑


古代の地名が今に残る仁左平小学校

アイヌ壇

伊加古塚
  


末の松山 
其の7

日本後紀弘仁2年7月には爾薩体村・弐薩体村と記されてる村は今日二戸市仁左平の行政単位として残っている 左下の画像は仁左平小学校だが先生の話では校章の云われについて的に三本の矢が的中していて大和朝廷(文屋綿麿呂)にたいする『爾薩体村の蝦夷の長伊加古の抵抗』をあらわしてるという大変勇ましい校章なのです  そして左上仁左平の丘に新しく開通した道路には伊加古ロードと命名されてその由来が彫られていました  上中 アイヌ壇の史祉 縄文時代の堀野遺跡近くの民家の裏の片隅にあった 明治時代に道路拡張の工事の際に大量人骨が出土し綿麻呂軍に討たれた蝦夷の埋葬地だという事から此の石碑を作成し丁重に埋葬したとの事 上右 蝦夷塚 仁左平の大段の地にあり別名伊加古塚とも呼ばれている 爾薩体村の夷の首領伊加古が埋葬された所と云う伝説である 地名の大段は壇に通じいわば祭壇に通じるのだという 中央政府と蝦夷の38年戦争の最後の攻防戦が正にこの地であった事の詳細が伊加古ロードの碑に刻まれていた