戦国末期以来の津軽氏と南部氏・弘前藩と盛岡藩の長年の怨念が文政4年1821弘前藩主津軽寧親を江戸からの参勤交代の帰り道を狙って相馬大作等4名が暗殺を決行を準備したが仲間の密告りにより未遂に終わった事件である 津軽寧親は日本海経由で帰国したため失敗に終わった 彼は盛岡藩に迷惑はかけられないと名を下斗米秀之進から相馬大作と改め江戸に隠れ住んだが翌年5月幕府に捕まえられ小塚原の刑場で獄門死した みちのくの忠臣蔵とか南部の赤穂浪士などと江戸で評判になったのです
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右中 槻蔭舎(会輔舎学舎)二戸市指定文化財
安政5年(1858)呑香神社宮司と萩藩小倉謙作が和漢学の講義を目的に創立 以後福岡[二戸)の知的起点となり教育・政治・産業の幾多の偉人を排出した礎となる(説明板) 岩手県初の公選知事国分謙吉も二戸である
右 田中館愛橘の墓
墓碑名もさすがローマ字 又この墓地には国分謙吉の墓もある
左 呑香(とんこう)稲荷神社
格式の高い南部氏縁の神社 境内に九戸正実神社・相馬大作神社・田中舘愛橘碑がある
末の松山 其の4
 
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上 南部信直公御葬禮場の碑 二戸市龍岩寺
当地にある九戸城を八年間居城とし宮野という地名を福岡と改め寛容な政治を行いこの地で病没した南部藩中興の名君信直公遺徳を偲ぶ碑

田中館愛橘が晩年住んでいた家 二戸市
表札ももちろんローマ字でした |