磐井の里一ノ関の西部 磐井川と久保川の合流点は古代東山道の磐井驛家の擬定地とされている 今この辺りは谷起島と呼ばれ安倍氏の前線基地小松柵跡に比定されている 又その磐井川の北側の赤萩福泉辺りが石坂柵があったとされている 1057年(天喜5年)安倍貞任に大敗を喫した官軍は雌伏5年ついに出羽清原氏説得に成功した 1062年(康平5年)8月9日清原軍10000 官軍3000が栗原郡屯岡に集結 同17日には小松柵攻撃の為萩の馬場に陣を構えたのである 安倍軍は大敗を喫し石坂柵に逃げ延びたが清原氏の徹底追尾のためついにこの柵も手放し最後の柵衣河の柵へと敗走したのである 石坂柵の標柱は国道342号の十字路にあるが小松柵は久保川の橋のたもとにあるが分かり難い 木戸口は小松柵の入り口にあたる所だ 又柵の西部には木戸脇と言う標柱も立っていて激戦の跡が偲ばれる 陸奥話記には「賊衆驚き騒ぎ自ずから互いに討ち合い死傷甚だ多し 遂に高梨宿並びに石坂柵を棄てて衣河関に入る 歩騎迷惑して巌に放たれて谷に墜つ 三十余町の程幣亡せる人馬宛かも乱麻の如し肝胆地にまみれ膏膩野を潤す」とあるのです |
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上 小松柵の入り口とされている
上左 「くだんの柵東南に深流の碧潭を帯び西北に碧立の青巌を負う 歩騎ともに泥む・・・剣を以って岸を穿ち鉾を杖きて巌を登る」と(陸奥話記)に記述されてる 確かに今も小松柵跡は久保川淵にあり記述通りの急峻な地で磐井川と久保川が交わる谷起島と云う要害の地であった
左 五輪塔
地元の老人の話には下手な歴史家よりも信憑性がある 小松柵に破れた安倍宗任の叔父僧侶の良照軍の戦死兵士30数名が埋葬されたと言う五輪塚 良照等は衣河柵へ逃げ帰ったのだと言う
磐井の里 其の3
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一関市指定史跡 盗賊豊吉の墓
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