義経英雄伝説縁の紫波東部にある赤沢地区
 この神社は義経神社 別名判官堂と言います 大角家の所有である 頼朝挙兵を聞いた義経は早速南部駒に跨り坂東へ向った 残された村娘ハルは白山神社別宮に義経の弓と刀を奉納して武運を祈り続けたのでいつしか義経神社(判官堂)と呼ばれるようになった その弓と矢が大角家に残されているという
左 大角家のおばあちゃん 82歳 
大角家の屋号はただ一軒だけ判官堂と言います ご本人は『義経とハルの間にできた落としだねの末裔だ』と話していた 高台の一軒屋である

鐙越(ひよどりごえ)
大角家から見下ろした所で地形が一の谷に似ていると言うので義経はここで一の谷合戦での有名な鵯越えの逆落しの訓練をしたのです この山合を鐙越しと言います とはおばあちゃんの談

矢場・的場地区
幼くして平家の追討から逃れるため京の鞍馬山から奥州平泉秀衡を頼った義経は赤沢地区の蓮花寺に匿われたという ここで打倒平氏のため馬術・弓術の訓練をしたところなのです 左側が矢場で右側が的場と云う地名です  司馬遼太郎は流鏑馬の始まりではないかと述べている
  在庁の役人亘理権守藤原経清は多賀城からここ赤沢地区に産金・産馬の管理者として派遣されていた そこで俘囚の長安倍頼時娘「結」と結婚した  これが彼の母親の供養碑と言われる石碑である 彼女は平氏の一族平国妙の姉妹と云うが仔細は不明との事   義経の井戸 
義経が日ごろ武術の訓練に通った赤沢地区の道路脇にある義経の井戸である 彼は度々この井戸立ちより水を飲み休息したという
 ここで村娘ハルと出会い結ばれたのです 彼が16〜17歳の頃です その末裔が大角家のおばあちゃんなのです 大角家の麓にある
左・左右 藤原経清公の母親の供養碑  紫波町赤沢地区
岩出の里 其の10 

         

左中 音高山の白山神社の麓にある藤原経清の母供養碑 志波の地は実に多様な歴史の地なのです 
風吹かば 音高山の 榊葉は 色や増らむ 神の御稜威に 
藤原経清