国指定史跡 岩手公園盛岡城 国の史跡に指定されている別名不来方城(こずかたじょう)と一般に理解されているが、厳密には盛岡城と両者は別の城郭であるらしいのですが私の勉強不足で所在は不明です。美しい白い花崗岩で出来た石垣は極めて珍しいらしい 藩主は不来方の岡が城下の繁栄を願い『盛える岡』と名づけた 人口30万の都市のど真ん中にこんな美しい石垣の公園があるのは何ともうらやましい |

賢治の清水 城の前 宮澤賢治が大正六年盛岡農林学校在学当時弟清六と大沢川原1丁目の玉井家に下宿していた当時利用した共同井戸 |
国史跡盛岡城址は現在岩手公園となり市民の憩いの場となっている ご覧のようにこのお城の石垣が実に美しいのです 安っぽい天守閣などなくてもこの石垣だけでも十分に我々を満足させてくれます そしてこのお城が非常に親しみやすいのは立派な石垣の割には深いお堀がないのことで普段着の下駄履き姿で周りの道路からスッと行ける気安さがあるのです お堀の変わりに南側に中津川西側には日本第二の大河北上川の岩手の淵が自然のお濠になっていのです お城が昔の立法・行政・司法の中心であった様に現在もまたここが官公庁街なのです道路一つ挟んで北側に県庁・市役所・裁判所-県会議事堂・県警本部・合同庁舎・岩手医科大・各金融機関が整然と其の甍を並べているのは➡ |

➡凡そ410年前の浅野長正・蒲生氏郷が南部信直にここ不来方への築城を進言した判断の先見性を垣間見る思いがしますここは会津f鶴ヶ城・仙台青葉城と陸奥3大名城の一つに上げられている1598年(慶長年)着工以来本格的完成は1633年と凡そ30年を要したと言う難工事でした 盛岡南部藩の初代利直から15代利恭まで20万石の居城に相応しい➡ |
➡ この城の直ぐ南側は中津川が流れ、少し離れて西側には北上川が流れる天然の要害の堀となっている 現在は市民の憩いの場である 近くには南部潘御蔵跡の碑もある
岩出の淵
其の4

下 米内光正は国に事が無ければ全く世人の目につかないままで終わった人であったろう(小泉信三)と云われた無口で鈍重な彼が日露戦争第3及び第2艦隊司令長官・海軍大将・従二位・勲一等・功一級・連合艦隊司令長官・海軍大臣・37代総理大臣を歴任した人物である
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ロマンチスト啄木がよく来た盛岡城
教室の 窓より遁げて ただ一人 かの城跡に 寝に行きしかな 啄木
盛岡中学時代彼は授業をサボッてここで夢想に浸っていたのでは無いでしょうか 右の歌碑と隣の賢治の詩と比較して賢治と啄木の性格が出て大変興味深いのです 岩手を代表する2人の偉人でいい加減な啄木と堅物賢治がこの盛岡城に刻まれているのです |
不来方の お城の草に 寝ころびて
空に吸われし 十五の心 啄木歌碑 城内 |
岩手公園
「かなた」と老いしタピングは
杖をはるかにゆびさせど
東はるかに散乱の
さびしき銀は聲もなし
なみなす丘はぼうぼうと
青きりんごの色に暮れ
大學生のタピングは
口笛軽く 吹きにけり
老いたるミセスタッピング
「去年(こぞ)なが姉はこゝにして
中學生の一組に
花のことばを教へしか」
孤光燈(アークライト)にめくるめき
羽虫の群のあつまりつ
川と銀行木のみどり
まちはしづかにたそがるゝ
宮澤 賢治の詩
タピングは盛岡バブテイスト教会の牧師で盛岡中学の嘱託英語教師 |
第37代総理大臣米内光正の墓 新山河岸にある円光寺境内 |