うなばらや 鼠が関に 風荒れて 寄せ来る波を 宿る方なき
                        
東遊雑記 古川古松軒
念珠関村 字鼠ヶ関と 聞きにしに 心足りつつ 吾去らんとす
                     
アララギ派歌人 土屋 文明
遠く来ぬ 越の海府の 磯尽きて 鼠ヶ関見え 海水曇る
                                    
与謝野 晶子
右 古代鼠ヶ関祉と関戸生産遺跡
古代鼠ヶ関は軍事警察的な防御を目的とする関所とそれを支える高度の生産施設を持った関戸集落二より関が成立していた



右端上下  国指定史跡近世鼠ヶ関祉 
上の画像には勧進帳の本家と書いてあるのもほほえましい  下の史跡念珠関祉は国道7号線の脇にある



右 古代鼠ヶ関祉の碑
先方がJR羽越線鼠ヶ関駅



吾妻鏡の文治五年(1189)の奥州征伐の条に「越後の国より出羽鼠ヶ関に出て合戦を遂ぐべし」とあり義経追撃と平泉攻略が生々しく想像される 温海町の文化財(教育委員)会

鶴岡市鼠ヶ関字原海
 

 
勧進帳の本家

この関の最初の記述は能因歌枕の『ねずみの関』であるがその割には古歌が少ないのに苦労したのは私の無知故からかもしれません。奥州三関の鼠ヶ関は古代鼠ヶ関で白河の関、勿来の関とともに魅力的史跡なのです。その一つが都岐紗羅柵跡ではないかと云う説である。日本書紀斉明天皇四年(658年)7月四日の条に『多数の蝦夷が都に来て位と物品を戴いた この時に日本海の官吏にも褒賞が与えられた 都岐紗羅柵造には位2階級 判官には位1階級昇進が与えられた』と記載されている。残念なのは指名の記述はない事です。然もこれだけが唯一の記述でありどこが都岐紗羅柵なのかはその所在は一切不明なのです。 日本海の柵と云うと新潟市内の大化4年(647)渟足柵と県北部村上市の大化6年(648)磐舟柵そして新潟・山形県境の鼠ヶ関のうちのどれかでしょうとも云われるが未だ幻の柵なのです。磐舟柵と初期出羽柵の中間辺りに一つ柵があっても不思議ではない。ツキサラとは魅力的名前だしこの鼠ヶ関が都岐紗羅の柵でもおかしくはない。近世鼠ヶ関祉とは逆に古代鼠ヶ関にただ石柱一本が立ってるだけの古代鼠ヶ関は初々しい日本の創世記を想像させるのです。ツキサラとはとても1300年前のネーミングとは思えない新鮮さです。ウイキペディアには村上市のウエブサイトの磐舟柵の解説として『日本書紀646年の「是歳、越国の鼠、昼夜相連りて東に向ひ移り去く」の「越国の鼠」とは内陸住む蝦夷の事、又前年大化元年(645)12月の「越国言さく、海の畔に枯査(うきき)東に向きて去りぬ」記述の「海の畔に枯査」を海浜に住む蝦夷の事である』と書いてある。中々興味ある推察ではないでしょうか。勿来の関は『蝦夷よ来る勿れ』だし鼠ヶ関の名が上の鼠から来てるとすれば『蝦夷の関』と云う事になります。つまり当たり前だが陸奥三関は対蝦夷防衛の柵の証拠なのです。それにしても土蜘蛛とかとか倭人は蝦夷にろくでもない呼び名をしたものです。もっとすごいのは大化の改新の凡そ100年も前には蘇我馬子の日本最初のクーデター(592年)によって暗殺された崇峻天皇の息子蜂子皇子が皆殺しを恐れて逃亡してきたのがここから20数キロ北にある由利海岸なのです。この辺りは古代の匂いが紛々とする地だし更に義経主従源頼朝の追跡から逃れて上陸したのもこの地で想像溢れる地なのです。それにしても土屋文明と与謝野晶子の歌は場違いの感じはぬぐえないね。どなたか古歌ご存じの方はご一報お待ちしてます。
(平成23年7月26日)(参考文献 あつみ観光協会提供資料 新青森市史資料編))


鼠ヶ関