清衡の本音は
平泉と言うと金色堂や黄金文化都市・芭蕉の「夏草や 兵どもの 夢の跡」の句ばかりが思い出すが重要なのは藤原三代が何ゆえ京にも勝る都市をかくも作り上げたかである 彼の中尊寺建立供養願文(国重要文化財・敬白 奉建立供養鎮護国家大伽藍一区事)にそのヒントがありそうだ 其の中で私の目をひくの清衡は自らをことさら蝦夷であると公に宣言している事である 普通なら此処まで成功した人物なら己の卑しい氏素性は隠すのが普通でしょう。願文の中に「善行こそひとえに鎮護国家の念である 自ら東夷の長の末裔である 生まれて此の方戦いの無く長く太平の世の恩恵に浴し辺境の地おいてなす事も少ない 誤ってか俘囚の長として静かな出羽・陸奥に暮らし・・・・・金を冶て仏像と経典を顕し伽藍を配置して龍虎力を合わせて四神の守護を招く 然るに蛮夷の地も改まり諸仏加護のあます所無き仏土が実現する・・・・・」とある 連名として鳥羽法皇の勅使按察使中納言藤原顕隆卿・願文清書は右中辨藤原朝隆・導師は天台宗総本山相仁己講・造営者は大檀那陸奥守藤原朝臣清衡と連署されている そしてその願文の起草文は当代隋一の知識人文章博士藤原敦光による物だったというのです 中央政府法皇代理の按察使の前で堂々と自らを東夷の遠酋・俘囚の上頭と名乗りその国土を蛮夷の地と意識的に卑下する意図は極めて重要であるとおもわれる この辺りは推測としてだが陸奥・出羽の国土は中央政府とは一線を隔し安倍氏・清原氏を統合する蝦夷の独立国として中央の干渉を許さない精神を貫く意図とプライドがあったのではないかと思われる 今でゆう古代版地方分権以上のを主張したに違いない 確かに清衡(父は藤原経清)の母は蝦夷の安倍頼時の娘でありその子基衡の妻は安倍宗任の娘である その子が秀衡なのであるが秀衡の妻は京都藤原氏の名門に生まれ陸奥守や鎮守府将軍を兼務した貴族藤原基成でその娘を母として生まれた 貴族の娘を母に持った泰衡は気の小さい軟弱な子供だったに違いない 本来秀衡の跡継ぎは長男である腹違いの国衡だったが泰衡の母親の家柄が格が上だったため泰衡が当主となったのである 秀衡の後継者選択の過ちが藤原100年の栄華を一瞬の内に灰燼としたのではないかと想像されるのです
左 白山神社 右 国重要文化財 野外能楽堂
束稲山 其の8
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平泉のネーミング
平泉の中尊寺・毛越寺は慈覚大師円仁が全国巡錫の折開山した寺である 比叡山延暦寺開祖最澄の弟子として第3代天台座主となり日本初の大師号を授かった仏教界きっての珠玉の人物で彼の中国留学層として9年の修行中に書いた入唐求法巡礼記は日本人初の旅行紀でマルコポーロの東方見聞録に勝る資料となった その慈覚大師円仁が嘉祥3年(850)中尊寺境内に白山神社を北方鎮守(南方鎮守は日吉日枝神社)として加賀の国白山より勧請した 彼は天台主と白山信仰の神仏融合を日本全国に伝道したのです 大師縁の寺院は長野善光寺・東京浅草寺・日光輪王寺・大慈寺・山形立石寺・松島瑞巌寺・恐山・ここ平泉中尊寺・毛越寺と関東・東北に極めて多い 彼によって開山された中尊寺は当初は関山弘台寿院と呼ばれ同時に関山の最奥部に加賀の白山から白山神社を勧請した 富士山・立山とともに日本三大名山白山信仰は六国史の一つ日本文徳天皇実録の仁寿3年(853)に10月22日に加賀国白山比盗_従三位と記載されていて登り千人下り千人例えられて途切れずに登拝する信者・修験道で賑わった 登拝参道口には越前馬場・加賀馬場・美濃馬場と呼ばれ登拝祈願三社が珍座してると言う 其の中の越前馬場の白山神社は白山平泉寺と呼ばれている その参道奥左側に御手洗の池がある 林泉の泉こそ平泉の名を世に知らしめた池なのだ 白山からの湧き水で古木の林間を潤し静寂の雰囲気を更に高めて神水の池となった 養老元年(717)高僧泰澄は白山登拝の信念によって祈願して林泉の影向石に白山大明神が現れ「吾 遊士(志を抱いて全国を遊歴する人)の所であり わが中居(神の宿る場)なり」と申されたとある(東国平泉・白山信仰とともに世界遺産へ 岩手日報出版部) 泰澄はこの林泉が神の宿る場と悟りこの地にて祈願の後白山に入山した 以来この地を平泉寺と呼ばれるようになったと言う 今尚絶えず清水を讃える この神泉より起こった名称と感慨を覚える とある 神聖なる白山の山塊から湧き出る豊かな清水に恵まれた平泉は九頭竜川の源流を占めて唐土洛陽の平泉(へいりん)に対する そしていま泰澄が神明遊士の地として神殿をつくりお祀りしたのが後の平泉の語源として栄え伝承されている 修験道としての白山は日本九峰の中でも屈指の代表的山岳信仰の場である 歌枕 越の白山の歌も多
思いやる 越の白山 しらねども ひとより夢に こえぬよぞなき 古今和歌集 紀貫之
よそにのみ 恋やわたらん しら山の 雪みるべくも あらぬわが身は 凡河内躬恒
だから文治5年(1184)泉三郎忠衡公が奥州平泉から移植したといわれる能登アテ(あすなろ)の元祖が今もなお当町泉家の庭に成長し続けていて石川県門前町の天然記念物に指定されている 其の大樹二本から採取した苗木をその始祖の地中尊寺境内に帰しその成長を祈る 平成3年石川県門前町 能登アテの元祖保存会の説明文が上右の画像が孫の能登アテである |