多珂の郡。[東と南とは並びに大海、西と北とは陸奥と常陸と二つの国の堺にある高山なり。古老曰へらく、「斯我高穴穂宮大八洲照臨天皇(しがのたかあなほのみやにおほやしましらしめししすめらみこと)の世に、建御狭日命(たけみさひのみこと)を以ちて多珂国造に任しき。茲(こ)の人初めて至り、地体(くにかたち)を歴(めぐり)り験(み)て、峰険しく岳嵩(たか)しと以為(おも)ひて、因りて多珂の国と名づけき」といへり。建御狭日命と謂ふは、即ち是れ出雲臣の同属(はらから)なり。今、多珂・石城と謂へるは是なり。風俗記(くにぶりのふみ)に、「蓆(こも)枕の多珂の国」と云ふ。建御狭日命、遣さえし時に当りて、久慈との堺にある助河を以ちて道前(みちのくち)とし、(郡を去ること西北六十里に、今も猶、道前里(みちのくちのさと)と称ふあり。)  陸奥国石城郡の苦痲の村を道後(みちのしり)としき。其の後に、難波長柄豊前大宮臨軒天皇の世に至りて、癸丑年に、多珂国造石城直美夜部、石城評造部志許赤等、惣領高向太夫に請(こ)ひ申して、所部(くぬち)遠く隔たり、往来(ゆきき)に便(たより)よからぬを以ちて、分ちて多珂と石城と二つの郡を置きき。(石城郡は、今、陸奥国の堺の内にあり。) 常陸の多珂の桁藻山(たなめやま)をも「風土記」の歌には、「道の後、たなめの山」と詠めり。
            (常陸国風土記 且R川出版社)

道口郷 風土記に大化癸丑年、今置多珂、石城二郡、其道前里、今去郡西北六十里とある 道前道口に同じ。然らば西北は、西南の誤りなる事必然の理なり。 古の日高見国の一関塞たり。故に高国をば、一名道口岐閉国と云へり。岐閉は柵戸にして関塞配置の兵民に因れる名目なり。
手綱の浜 手綱 今松岡村と云ひ、高萩の西北一里、旧名手綱と云ひしも水府の宰臣中山氏の城舘ありて、松岡城と号せり、故に村名に立てらる。高戸・赤浜、今手綱に合せて、村岡村に改む。高萩の北半里。高戸の北は赤浜にして、共に海に沿る、古の手綱浜なり。
多珂郷 郡郷考云、多珂郷は、今上下手綱浜なり、古郡家の地なるを以て、中世大高と称せり、今大高寺大高台など、此地にあるは、其名残なり、手綱は、古海浜の名と見えたり、万葉集、手綱浜の歌あり。
道口岐閉国 此道口岐閉国は、風土記に多珂郡道前里と、倭名抄に道口郷と云ふが見ゆるにて、高国の南偏をば、別に道口国造ありて、之を治められし由、分明なり。此国造は、即城司にて、関塞を守りければ、岐閉国造と唱へらる。岐閉は、蓋柵戸の義にして、キノヘに同じ。城柵は、柵戸を置きて之を守ること、上古の法なり、故に城司(国造)を岐閉の造ともいへるならん。古事記には、道尻岐閉国造あり、其道口岐閉国造てふ対称無きは、蓋逸略に従へるの (大日本地名辞書 富山房)
右端上 吉田松陰遊歴之地碑 漢詩「磯原客舎」(於野口家)海樓把酒対長風顔紅耳熱酔眠濃忽見萬里雲涛外巨亀蔽海来艨艟我提吾軍来陣比貔貅百萬髪上衝夢断酒解灯亦滅涛声撼枕夜鼕鼕」 
右端下 弟橘姫命神社 天妃山の山頂にある 当初は朝日指峯と云われ薬師如来を祀っていたが西山光圀公が唐の高僧心越禅師を奉携してきて天妃神を祀り磯原大津の守護神とした その後天保2年(1831)烈公斉昭は日本武尊の妃弟橘姫命を海陸の守護神として祀り弟橘姫命神社と改め天妃神は合祀された(説明板) 新撰組の芹沢鴨も宮司でその神官時代に尊王攘夷思想精神を学んだ 
天妃神とは道教の正統神媽祖の事で北宋時代の実在の女性
    手綱の浜  国造本記によると今の茨城県の国は下総・新治・茨城・仲(那珂)・久自(久慈)・高(多珂)で久慈はいまの日立地方で高の国は日立市北部十王町・高萩し北茨木市を含む範囲である この高の国に手綱と云う地名は高萩市にあり他にないとの事 手前の急峻な小浜海岸から赤浜・ささき浜と遥か北茨木市までの海岸線が続く 日本の渚百選にも選ばれた見事な浜で万葉人がよくぞ詠んだものである  





    高萩高戸の高萩霊霊苑の駐車場の脇の四阿の近くにある万葉集巻9-1746歌碑ここから凡そ1kmほどの万葉の路が続く 
訳 都から遠く離れた妻が多珂の地いたのならば道は知らなくとも手綱の浜の名の如く私は尋ね来ようととも思うのに 手綱と尋ねを掛けているのでしょう