鞍石山にある鞍掛石旧跡の碑 
 背後の樹は松(笠松) ここは天正13年(1585)伊達正宗二本松城畠山義継攻略に際して重臣片倉小十郎重盛が手勢300騎を率いて陣を張ったところである その時馬の鞍を石に掛けて馬を休ませた事からここから産した石を鞍掛石と呼ばれるようになった花崗岩のことである 然し日露戦争後農民救済のため全て東京都電の敷石用に切り出されて今はその痕跡はありません 奥に見えるのが安達太良山


 
    安達が原 其の3
                       
陸奥の 安達が原の 二本松 
 松の根方に 人立てる見ゆ  

                高村光太郎
安達が原は智恵子の故郷です 古代の駅湯日は現在安達郡安達町油井となって残っている 彼女はその油井小学校を卒業後福島高等女学校・日本女子大と進んだ 大正9年父親長沼今朝吉の3回忌に帰郷した智恵子と光太郎  有名な[樹下の二人」の詩はここ鞍石山でのものなのです 二本松で阿武隈川安達太良山の両方が一度に見えるのはここだけである 西に安達太良山 東に阿武隈川が確かに光って見えます 樹下の二人には「・・・こうやって言葉少なに坐っていると、うっとり眠るやうな頭の中にただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります・・・」「・・・ここはあなたの生まれた故郷、あの小さな点点があなたの家の酒蔵。それでは足をのびのびと投げ出して、このがらんと晴れわたった北国の木の香満ちた空気を吸はう・・・」等恋する男そのものだが千恵子に精神障害が出てからの詩「山麓の二人」では私もうじき駄目になるを2回も述べ「この妻を取り戻すすべが今は世にない」等と対照的に暗い心情述をべている 
上 千恵子の生家
上 千恵子の実家長沼家の墓  飯出山満福寺
  右から祖父母・父母・兄・妹だそうである 千恵子・高太郎の墓は豊島区駒込の染井霊園である この寺は頼朝に追われ落ち延びる義経主従が立ち寄って昼飯を出され腹いっぱい頂いたのでその御礼に弁慶が飯出山満腹寺と名付けたと山門入口に書いてある 三代目城主畠山国諒が祖父・父の法要を鎌倉腰越の竜護山萬福寺の高僧に読経をお願いしたのでその後は満福寺に改称したと云う 住職のおばあちゃんに「弁慶等は北陸道でこちらは通らなかったのでは・・・」とチョットからかうとおばあちゃんは「飯を食べて満腹してから北陸へ出たのヨ・・・」と話していた 
左 千恵子純愛通りと彼女が通った油井小学校 実は自民党政治家平沢勝栄氏(東京17区)の出身校で優秀な彼は福島高校から東京大学に進学し学生時代にはあの元総理大臣安倍晋三氏(成蹊大学卒)の家庭教師をしていました そして教え子安倍内閣の下で内閣府副大臣をしてたのも縁ですね

 正岡子規の句碑 彼は明治中期にこの寺に一泊して句を残している
子規の2句 福寺
 水飯や 弁慶殿の 食いのこし
寺に寝る 身の尊さよ 涼しさ