蒲生氏郷が眠る興徳寺は1287年(弘安10年)芦名3代目泰盛が鏡堂覚円を鎌倉から招請され創建した郭内にあった唯一の臨済宗の寺で1417年には関東天下十刹に列した名刹である 芦名を破った伊達正宗もここを仮の宿としたし翌年あの天下人豊臣秀吉も奥州仕置きで会津に下向の際にはここを政庁とした 1607年26世逸伝和尚は朝廷より最高位の紫衣を賜ったと言う    近江商人の国蒲生郡日野出身(そこに若松の森と言う名所あり)の氏郷は信長に見込まれ伊勢松ヶ島に転封 商都松坂6万石を建設 そこから後に数多くの伊勢松坂商人が江戸へ出た その代表例が越後屋(三井呉服店 三越)である 黒川に来ても氏郷を慕う商工職人が一緒に移動してきた 彼は城下町を若松と改称黒川城を若松城(幼名鶴千代から鶴ヶ城)とした 町割りを商業3工業7に割り振り商人・職人重点の商業経済都市づくりをする 有名な会津塗りはその典型で今も「塗りの辻」の碑がある 町の中心札の辻は芦名時代からの会津商人司簗田藤衛門道幸の屋敷跡でここに2500坪の屋敷を与えてその発展を期させた つまり会津は近江商人 伊勢商人の集大成の町で白虎隊だけの町ではないのです

 大町札の辻 若松市道路元標 会津五街道の出発地 若松の発展の中心地である
         会津の里 其の10
  

 會津商人司簗田家屋敷跡の碑  この前の通りが野口英世青春通りで左200mも行くと旧會陽医院野口英世青春館の喫茶店がある 大正ロマンの内装がよかった

正に陸奥一の大都市にふさわしい寺院だった 然し町の真ん中にあったため戊辰戦争の会津攻めで堂宇はことごとく灰燼に帰してしまい今は小さな鉄筋コンクリートの本堂で往時の面影も有り難味もない わかりにくい雑然とした飲食街の裏路地の駐車場になっているのは残念だ 
上左端 蒲生氏郷の墓(正面五輪塔) 
市内のど真ん中神明通り東側の郭内唯一の寺興徳寺にある 彼こそ黒川から会津若松の名付け親で現会津の生みの親なのです

 蒲生氏郷辞世の歌碑 興徳寺
「次期天下人は氏郷」と秀吉に恐れられた男は陸奥会津へ東北支店長として遠流され伊達政宗の監視役となった 然しここでも彼は42万石から92万石へと徳川 毛利に次ぐ経済大国を造る「氏郷の生涯は実に短いものであったが、會津漆器の奨励など政治産業文化の上に遺した功績は実に不朽えである」 と墓石の近くに書かれていた
限りあれば 吹かねど 花は散るものを 
               心みじかき 春の山風
  

上右 松平容保公の歌 興徳寺
百とせの 三たびかさねて 若松を 
           さとは幾千代 栄ゆくらん

右 県指定重要文化財会津藩2代目藩主蒲生秀行公廟
 彼は1595〜1598年・1601年〜1612年と2度会津藩主となる

右中 3代目蒲生忠郷の五輪塔 高厳寺裏
 1612年わずか10歳で3代目60万石の城主となる