安達ケ原 
   
 おもひやる よその村雲 時雨れつつ 安達ケ原に もみじしぬらむ      新古今和歌集 源 重之
      時雨ゆく 安達ケ原の 薄霧に まだ朽ち果てぬ 秋ぞのこれる         拾遺愚草 藤原定家
       
安達野の 野沢の真菅 萌えにけり いわゆる駒の けしきしるしも     夫木和歌集 後徳大寺左大臣
       
陸奥の 安達ケ原の 黒塚に 鬼こもれりと きくはまことか             拾遺和歌集 平 兼盛
       
陸奥の 安達ケ原の 白真弓 心こはくも 見ゆる 君かな              拾遺和歌集 読み人しらず

            小一条右大将になつきたまふとてよみてそへ侍りける
      陸奥の 安達の真弓 ひくやとて 君にわが身を まかせつるかな      後拾遺和歌集 源 重之
        
陸奥の しのぶのたかを 手にすえて 安達の原を ゆくはたか子ぞ   夫木和歌集 能因法師
                                          
         実方朝臣陸奥国より人の許へ弓つかはして恋しくば之を抱きてふつせと申したりける返し人にかはり
     これやさは 安達の真弓 今こそは 思ひためたる ことも語らぬ  風雅和歌集 三条院女蔵人左近          
安達ケ原の黒塚は二本松市内にある。古代律令国家の官道の通信・運輸の交通制度に駅家(うまや)制度があり大宰府迄の山陽道は馬20疋 東山道には10疋 その他の官道には五疋が置かれた。言わば現代の道の駅の様なもので凡そ16kmごとに置かれていた。福島県内の東山道の駅家は雄野(白河市)・松田(東村)・磐瀬(須賀川市)・葦屋(郡山市)・安達(本宮町)・湯日(安達町)・岑越(福島市)・伊達(伊達町)・篤借(国見町)と9駅があった。その安達〜湯日の駅辺りがを安達ケ原(野)と認識されている。有名な安達太良山の中腹からながめると素晴らしい景色である。この神体山の流麗な姿の他に阿武隈川や、黒塚伝説の地もあり古代から中々人気があったようだ。東山道は安積原野を過ぎて安達ケ原に入るのだが安積原野は見るべきものはなかったのか明治維新の安積開拓まで知名度は低かったようだ。所が安達ケ原に入ると俄然数多くの歌に詠まれているのは面白い。もともとこの地方は上の歌にもある様に弓と駒の産地だったらしい。安達の黒駒と安達の檀(まゆみ)である。本宮はもとは本目といい本牧を意味していたとゆう(宮城女子学院大学教授 佐佐木忠慧氏)。本牧が本宮になった訳である。又檀から作ったのが真弓で、槻(けやき)から作ったのが槻弓、梓の木から作ったのが梓弓であり安達太良山は檀の産地だった。
36歌撰の1人平 兼盛は百人一首「忍れど 色に出にけり 吾が恋は 物や思うと 人の問ふまで」の方で有名だ。黒塚の歌は奥州にいた恋人に贈った歌とされている。つまり友人である陸奥国司源重之の娘に惚れ込んいた兼盛が陸奥にいる娘を戯れに鬼と呼んで案に求婚ねだる戯れ歌なのだ。彼が詠んだのは平安中期960年ごろで、この寺の開祖阿舎利祐慶j東光坊が鬼婆退治は725年(奈良時代)と具体的なのも面白い。現在は周りはご多分に漏れず観光客目当ての売店、商店、ドライブインがありとても我々子供時代に脅かされた不気味さは微塵もないが、1000年前とはいはず僅か100年前でも子供騙しには十分ではあったろう。すぐ隣が黒々とした阿武隈川が涛々と流れ周りには杉の大木が鬱蒼と茂り恐らく昼尚暗く人気など無かった当時は十分な凄みは感じられるところだ。尤も安達ケ原は固有名詞だが寒々しい、荒涼とした荒野、原野とゆう形容詞的意味も含んでいるそうだ。(二本松市主幹根本豊徳氏 そんな暗いイメージとは裏腹に東山道の駅家はなんと陽日(ゆい)と云う明るく、やわらかく、そして暖かい名称だったとはまことに皮肉な事である。今もここは油井である。
(平成14年6月11日)(参考 本宮町史・日本の古代道路を探す 平凡社新書・福島県の不思議事典 新人物往来社・福島市史)