右 芭蕉宿宿泊宿 能登屋跡
曽良旅日記には「・・・・昼ニ及テ塩越ニ着。佐々木孫左衛門尋テ休。衣類借リテ濡衣干ス。ウドン喰。所ノ祭ニ付而客有ニ因テ、向屋ヲ借リテ宿ス。先、象潟橋迄行而、雨暮気色ヲミル」と記している 元禄2年(1689)6月16日象潟に着いた二人は当初ここ能登屋に泊まる予定だったが熊野神社の祭りの日で女客があったので仕方なく向にある向屋に宿をとり翌17日能登屋に宿泊した 今は消火栓があるだけだ  ところで越の国市振の宿で芭蕉は
一家に 遊女も寝たり 萩の月
 と詠んでいる 彼唯一の艶っぽい句だが象潟とは打って変わりしみじみと遊女の身の上話に聞き入っていて別れ際には「結縁せさせ給え」とまで口説かれて中々興味深い 象潟から市振の間にどんな心境の変化があったのか興味深い

右下
 左右往還と刻まれた舟つなぎ石 象潟川河口にある船つなぎ石 赤い欄干の橋のたもとにある 

熊野神社 芭蕉と曾良が到着した日はたまたま神社の祭りの日で能登屋が満員で宿が取れなかった 曾良はここで   
象潟や 料理何くふ 神祭り
 と詠んだ  
菅江真澄もここ象潟で歌を詠んでいる
たび衣 ぬれてや ここに象潟の あまの苫やに 笠宿りせん 

 紅連尼の生誕の地に立つ彼女の歌碑
 象潟 
其の3














この美談を伝え聞き人々はその貞節に感心し誰云うとなくそのせんべいをこうれんと呼ぶようになったという 今瑞巌寺の左手には軒端の梅と云う老梅が一本ある これが小太郎の飢えた梅の木だという 象潟と松島は姉妹都市ではなく夫婦都市宣言の町である

上 史跡名勝・天然記念部の碑
象潟は町全体が史跡名勝で天然記念物という希な街なのです
下 史跡唐戸石 
象潟は文化元年(1804)の大地震で一瞬のうちに陸と化したのです この石こそ隆起した高さを立証する物的証拠で隆起する前に波によってできた浸食跡がはっきり残っている 海面から浸食跡まで標高差2.4mが隆起したのです

象潟橋(欄干橋)
ここから眺める九十九島と鳥海山は象潟八景の一つとされた 曾良旅日記には象潟についた6月16日に『先ず象潟橋に行きて雨暮気色ヲミル・・・』とあり象潟を去る18日には『快晴 早朝 橋迄行 鳥海山の晴嵐ヲ見るル・・・』とある 芭蕉と曾良もここに立った所ですこの日は生憎の曇天で鳥海山も見えなかったのは残念
移し植えし 花の主は はかなくに 
  軒端の梅は 咲かずともあれ
咲けしかな 今は主と ながむべし 
    軒端の梅の あらん限りは
    能登屋跡の隣に歌碑がある
紅連尼とは

象潟の商人森と松島町の掃部は西国33番観音参りの道中気が合い娘タニと息子小太郎の結婚の約束を交わした タニ女が遥々遠い松島に着いてみると夫になるべき小太郎はふとした病で亡くなっていた 舅と姑は気の毒がり国に帰るよう口を極めたと云う しかしタニ女は亡き夫を弔い老い先短い舅・姑に孝養を尽くしたいとどうしても帰らなかった こうして使える事11年真の親に対するように孝養を尽くし舅・姑亡きあとは瑞巌寺にて剃髪して紅連尼と名乗りせんべいの商いで松島で生涯を終えたのです➡