象潟の最大の恩人は芭蕉による奥の細道にあるあの一節でしょう『・・・此の寺(蚶満寺)の方丈に座して簾を捲けば、風景一眼の中に盡きて南に鳥海天をさヽえ、其の陰うつりて江にあり。西はむやむやの関路をかぎり、東に堤を築きて秋田にかよふ道遥かに、海北にかまえて浪打ち入るる所汐こしと云ふ。江の縦横1里ばかり、俤松嶋にかよひて又異なり。松嶋は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。」               
         象潟や 雨に西施が ねぶの花 
           汐越や 鶴はぎぬれて 海凉し

宮城県松嶋の文章に勝るとも劣らない流れるような美文こそ真に象潟に相応しいのです。町そのものが天然記念物(昭和9年1月22日)と云う国指定文化財なのは象潟しかないのではないでしょうか。此の見事な造形美は有史以前から頻繁に起きた天を突く鳥海山の噴火と日本海底の地殻変動による大地震とが僅か1000年の短時間の間に創り上げた天然の作品なのです。記録されてるだけでも鳥海山噴火は『578年毘逹天皇2年・598年崇峻天皇11年・717年養老元年・810年弘仁元年・824年天長元年・830年天長7年・850年嘉祥3年出羽国大地震・871年貞観13年・884年元慶8年・915年延喜15年・939年天暦2年・999年長保元年・1004年寛弘元年・1477年文明9年・1644年正保元年大地震・1722年享保7年・1740年元文5年・1764年明和元年・1780年安永9年大地震・1801年享和元年2月噴火且つ6月大地震・大噴火7月6日大噴火13日大噴火・1804年6月4日PM10時大地震潟底3・5m海岸2・4m隆起』とあり殊に850年嘉祥3年の大地震により陸地が大陥没して芭蕉が見た松島の様な江の中に八十八潟・九十九嶋が出来たが、1804年6月の大地震で今度は潟底で3・5m海岸で2・4mも陸地が隆起して現在の地形になったのです。芭蕉が来てから115年後の事なのです。然し象潟の歴史を語る時そのスタートが何とあの神功皇后から始まるのには何とも楽しいでは在りませんか。神功皇后と言えば歴史年表をみると初代神武天皇から14代目の仲哀天皇(在位192年1月11日〜200年2月6日)の奥様なのですが単なる奥様ではなく旦那様以上のやり手奥様で日本のジャンヌダルクみたいな女性なのです。彼女は夫とともに熊襲征伐に筑紫の国に来ていたが、香椎で仲哀天皇が急死すると皇后は妊娠中にもかかわらず朝鮮半島まで出陣して新羅を討ち、百済と高句麗を帰服させて帰国後宇美で応神天皇を出産した人物です。所謂『神功皇后三韓征伐』で古事記には『御舟の渡り幸着ます時に海原の魚ども大小問わず悉く集まり来りて御舟を負いて渡りき』とあり、
新羅に到着した時も『御舟の波欄(なみ)新羅の国に押し騰(あが)りて既に国半ばまで至りき』とあり忽ち百済・新羅・高句麗を征服した事が載っているのです。帰国の折神功皇后は弓の上端で石壁の上に、『三韓の王は我が日本の犬なり』などととても現在の韓国・北朝鮮の方には見せられない文言を刻み付けて日本に帰った事になっている。戦後は見る影もないが戦前の日本では史上最大のヒロインだったのです。出陣の時彼女は15代天皇の応神天皇を身ごもっていた(5月目とも臨月とも)ので、出産を遅らせるため石を帯の中に巻きつけていたという事になっています。戦争に行っていたのにも関わらず無事応神天皇を産んだので安産の神様になったようです(ちなみに、応神天皇を取り上げた女官が、この帯をもらって、婚儀の時に頭に巻きつけたそうで、それが『角隠し』のルーツだと言われているそうです)そして神宮皇后の安産のイメージがそのまま腹帯=安産に変わったのではないかと言われてます。息長帯日売命という名前の長帯という辺り、腹帯(岩田帯・妊娠5月目の最初の戌の日に捲く)のスタートかもしれない。さて激しい大時化(しけ)の続いた後よく晴れた10月下旬のある日、象潟近くの沖合いに漂流する巨大な船を見た小浜宿禰は引船で湊の入り江にそれを導いてきた。何と是が畏れ多くも神功皇后の凱旋途上の御舟だったと云う。そこが象潟鰐渕と云う海岸で現国道7号線傍の嶋には蚶満寺(853年自覚大師創建)があるがその山号が皇宮山と言うのも理由があるのです。つまり此の嶋こそ臨月間近の玉体の神功皇后縁の嶋(帆牛掛嶋)で仮宮として御遷になられ、翌霜月15日に安々と応神天皇誕生をお産みになった島と言うのです。神功皇后御舟つなぎ石が残っているのです。象潟は町全体が天然記念物と言うだけではなく素晴らしい神話の町でもあるのです。慈覚大師が象潟を神功皇后漂着・応神天皇御出産の聖地・魂を悩ます景観の地に一寺を建立して皇宮山蚶満寺と名付けられたのも『さもありなん』なのです。所で象潟(キサカタ)はチョット読みにくいが元々は蚶方であった。初見は927年延喜式に『出羽国駅馬、最上15疋・村上・野後各10疋・遊佐10疋・蚶方・由理各12疋・・・』とある。蚶(キサとは此の地方がまだ八十八潟・九十九嶋の海だった頃沢山採れた蚶貝の事であり、蚶が沢山採れる地方の意味で蚶方・蚶が満る所から蚶満寺とも云われたらしい。蚶方→蚶潟→象潟となったらしい。それにしても各地方にあるそれぞれの伝承・歴史は魅力が一杯である。(平成17年11月27日)
(参考 象潟町史 おくの細道 講談社学術文庫 秋田県の地名 平凡社
 奥の細道とみちのく文学の旅 里文出版 皇宮山蚶満寺 同寺
        象潟 其の2

象潟駅前の芭蕉の句碑
きさかたや 雨や西施が ねぶの花
ゆふ晴や 桜に涼む 波の華
腰長や 鶴脛ぬれて 海涼し


ねぶの碑    蚶満寺境内
 勿論『象潟や 雨に西施が ねぶの花』 とある 芭蕉死後70回忌記念して建てられた