望 月 の 牧(御牧の原)
鹿曲川と布施川・千曲川 に囲まれた御牧原台地は古代から朝廷の御料牧場でした 文武天皇4年(700)の続日本紀『諸国をして牧地を定め牛馬を放牧せしむ』とありこの頃から馬の飼育があったと思われる このように勅使の牧が望月の牧と言われるようになったのは天皇が当地の駒を毎年御覧になる儀式は8月29日だったが貞観7年(865)になって8月15日の満月の日に改められた 望月とは満月の事で全国で貢馬を最も多く献上する御牧御料牧場の事を望月の牧 ここから生産される馬を望月の駒と呼ぶようになった 往時信州16牧のうち最大の物が望月の牧でした NPO法人 望月まちづくり研究会より   古来名馬の産地は奥州岩手・青森が有名ですが信州の歌枕を調べて信州にこんな有名な産地があることを初めて知りました 今この御牧原台地のど真ん中を北陸新幹線が走り抜け時代の隔世を否応なく目にする

逢坂の 関の清水に 影見えて いまやひくらむ 望月の駒          拾遺和歌集 紀 貫之
あづま路を はるかに出る 望月の 駒に今宵は 逢坂の関                 源 仲正
嵯峨の山 千代のふる道 あととめて また露わくる 望月の駒        新古今和歌集 藤原 定家
望月の 駒よりおそく めでつれば たどるたどるぞ 山は越えつる        後撰和歌集 素性法師
年を経て 雲のうへにて 見し秋の かげも恋しき 望月の駒                 後嵯峨院
さ夜ふけて 瀬田の長橋 引き渡せ 音もさやけき 望月の駒                平 忠度
足引きの 山路遠くや いでつらむ 日高く見ゆる 望月の駒                 平 兼盛
ひきわくる 声ぞいはゆる 望月の 御牧が原や 恋しかるらむ      夫木和歌集  源 俊頼
望月の 御牧の駒は 寒からじ 布引山を 北と思jば                       西行法師
都まで 懐けて引くは 小笠原 みつの御牧の 駒にやあるらむ       夫木和歌集 紀 貫之
 
  中山道69次の内江戸から数えて25番目の宿 本陣前にある望月宿碑  中左 佐久市役所望月支所内の駒の像  佐久市望月263 如何にも古来官営牧場名馬の産地としての雰囲気だ 奈良平安期の信濃には16の牧があり焼く80頭の馬を朝廷に献上したと言われる 其の中でも望月は突出していて仲秋の明月になると信濃より馬が送られてくるのでその代表格の牧の地を望月と命名され望月の牧と呼ばれるようになった  中右 メイン通りにある建物 やまとやの看板が往時の旅籠の雰囲気だ  右 中山道望月宿の碑 
左2点 大伴神社 佐久市望月233 社伝では景行天皇40年大伴武日(祭神天忍日命)が馬に乗って当地に降臨し鎮座したのに始るとの事 大伴氏祖とするその一族が土着し豪族となった望月氏が望月以外の長倉・塩野の各牧の長官を兼務したとの事   右 大伴神社見下ろした望月家並みと向かいの山が望月城跡でそのうらが御牧が原 と草取りをしていた老夫婦が話していた
 左 史蹟望月の牧と野馬除けの説明板(はてなブログサイトより拝借) 東御市御牧原野馬233                    右 望月の宿の道祖神 中山道
上3点 追分節源流 小室節発祥の地碑 北佐久郡軽井沢町追分1155-1 小諸市周辺で発症したとする民謡 小諸の古名から小室節と呼ばれる 中山道を往来する馬子衆や馬喰達により謡われていたものが追分宿の飯盛女により三味線の伴奏やお囃子詞の入った座敷歌則ち追分節に発展してゆき北陸街道や北前船で北日本方面にも伝播していったと言う  歌詞も地域により異なるが石碑の裏側には 小諸出て見りゃ 浅間の山に 今朝も三筋の 煙立つ と彫られている 歌詞は長くて10番近くある 江戸口や まめで出代わる 小室節  一茶
 3点 若菜集 島崎藤村詩碑  初恋  松井農園リンゴ果樹園内 小諸市甲4385  まだ上げ初めし前髪の  林檎のもとに見えしとき  前にさしたる花櫛の  花ある君と思うひけり  ごらんおように丘陵の上にあり見渡す限りの林檎畑 さすが信州を実感します 6月下旬ご主人が急な斜面で摘果作業中でした
上3点 武田信繁墓 小諸市大久保232  信繁は武田信虎の息子で信玄とは異母弟で武田軍の副将であった 永禄4年(1561)9月の川中島最大の決戦で戦死した 信繁の配下で最期まで奮戦した忠臣山寺左五左ェ門は大激戦で首級を埋葬する場所が見当たらないので身体のみを川中島に埋葬(現川中島の典厩院)し首級は永禄2年迄信繁の嫡男信豊が城主をしていた小諸の領内のこの地に埋葬した    永禄四??九月九日 松操院鶴山巣月大居士位 武田典厩信繁墓 と彫られている  右端 曹洞宗典厩院(寺) 川中島 長野市篠ノ井杵淵1000 創建時は鶴巣寺と称していたが合戦から60年後に松代藩主真田信之典厩寺と改称した
上2点 国重要文化財 懐古苑 小諸城大手門 小諸市懐古苑311  小諸城は平安末期木曽義仲仕えていた武将小室太郎光兼が宇当坂に館を構えたのに始る その後武田信玄の重臣が縄張りをして城郭を整備した その後織田信長の重臣瀧川一益の持城となるが信長の死後は北条・上杉・真田等の争奪となるが徳川の時代になり仙石秀久が5万石の大名として小諸城主となり三層の天守閣や大手門を始め城下町や街道の整備をした
左2点  国重要文化財 三の門 慶長期から元和期に仙石秀久の創建によるが寛保二年千曲川流域の『戌の満水(洪水)』で城下を流れる中井川の氾濫土石流で流失した 明和2年再建された  右端 徳川秀忠公の腰掛石(床几石) 慶長5年中山道経由で関ヶ原に赴く途中秀忠は上田城の真田氏攻略のためここ小諸城に陣を敷い 
左端 惜別の詩の歌碑 作詞 島崎藤村 作曲 藤江美輔 遠き別れに耐えかねて 此の高楼に登かな 悲しむなかれ我が友よ 度の衣をととのえよ 小諸義塾に赴任して懐古苑付近を逍遥したときに詩想を得たという  中 二の丸跡 立て札に 若山牧水の歌が立っていた かたはらに 秋草の花 かたるらく ほろびしものは なつかしきかな  右端 黒門跡石垣
左 城内にある藤村記念館     中 藤村と小諸 明治32年4月藤村が小諸に来た事情から明治38年4月小諸を去るまでの出来事の記載    右 藤村胸像 
 
 左 千曲川旅情の詩碑 小諸城内  小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ 緑なすはこべは萌えず 若草も敷くによしなし 白金の衾の岡辺 日に溶けて淡雪流る       右 左の詩碑から見下ろせる千曲川
 
左端 文豪島崎藤村ゆかりの井戸 小諸市大手2-3 町内の大勢の人々と供に早朝の洗顔から冬子さんの炊事洗濯に到るまで一日の生活用水に利用したつるべ式の井戸   中2点 井戸の近くにある千曲川旅情の詩碑 文字が変わった万葉仮名を平仮名にしたような文言です  右端 島崎藤村旧栖地の碑と説明板  小諸市大手2-4 ここにあった旧宅は佐久市で紹介した貞祥寺に移築された
 
左  力士雷電の碑生家の説明板 天下無双の雷電はここ現東御市滋野乙で生まれる 天明4年(1784)17才で江戸相撲入し 寛政2年初土俵・寛政7年大関昇進以来16年21場所に渡り大関を維持し江戸本場所21年間に254勝14敗の古今最高の成績を残す  中 雷電生家 東御市滋野乙1981-2  右 力士雷電の説明 身長197cm・体重188kg・足サイズ28cm・禁じ手3手・張り手・かんぬき・突っ張り とある
左2点 力士雷電の碑 東御市滋野乙2272-9 旧碑文は文久元年(1861)撰文は松代藩士佐久間造山による 然し今や無残な姿である 子供が身につければ丈夫に育つとか勝負に勝てるとか 削って飲めば力がつくとかの迷信から激しく削り取られた結果文字は殆ど読めないので明治28年に右の新しい碑が建築された  中右 雷電像 道の駅 雷電くるみの里敷地内 東御市滋野乙2272-9  右端 雷電の墓 東御市滋野乙1914-1
上左3.点 白鳥神社(海野氏・真田氏の氏神・木曽義仲旗揚の神社) 東御市滋野本海野1116  海野宿のある本海野地区は戦国の名将真田氏の祖とされる滋野一族・海野一族発祥の地とされ平安から鎌倉・戦国時代まで本領の地だった 真田氏も.海野氏の継承者であることを誇りとし天正11年(1582)上田城築城の際祖先の地である海野郷の住民を呼び寄せ大手門の門前に海野町を設定して祖先の地を本海野とし
 左 真田氏発祥の地 中山道海野宿 重要伝統的建造物保存地区 東御市本海野            右 白鳥神社境内木曽義仲挙兵の地 千曲川白鳥川原の勢揃い