生田の森(生田神社)
順徳院は 秋風に 又こそとはめ 津の国の 生田の森の 春の曙(続古今和歌集)と詠み 清少納言の枕草子の『森は』の項には『・・・木枯らしの森・信太の森・生田の森・うたたねの森・・・』等21もの森を挙げている 上田秋成の詠まれた歌に 潮なれし 生田の森の 桜花 春の千鳥の 鳴きてかよへる ともある 式内社(名神大)で旧社格は官幣中社 同じ兵庫県内の廣田神社・長田神社とともに神功皇后以来の歴史を有する 源平合戦では平知盛(清盛の4男)・平重衡(清盛の5男)の本陣の地でもある
しぐれふる 生田のもりの 紅葉葉は とはれんとてや 色まさるらん 続拾遺和歌集 藤原景綱
啼き捨てて いづちいく田の 時烏 名残をとむる 森の下陰 玉葉和歌集 詠み人知れず
問ふ人も 秋風までぞ またれける 生田のもりの 雪の夕幕 新続古今和歌集 従二位行李
聞き置きし いく田の杜の 秋風も 荻の薬よりや 身にはしみけん 夫木和歌集 藤原俊成
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上左 櫻門 上右 拝殿 兵庫県神戸市中央区下山手通1丁目2-1 拝殿の奥に見える森が生田の森 現在の神戸の地名は、生田神社にお供えする為のお米やお酒などを作る庄園=神地つまり「神戸(かんべ)」から来ている 生田神社の由来は日本書紀の記述によると 201年神功皇后の三韓征伐の帰途ここ神戸の湊で船が進まなくなった その為神に占ったところ 稚日女尊が現れ『吾は活田(いくた)長狭国に居らむ 海上五十狭茅に命じて活田の地に祀らしめよ』 との神託が発祥の記述だ
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上 拝殿横から森に入れます 右 生田の森 勿論今となっては源平合戦の地の面影はなく森というほどの深遠さはないが大都会神戸の貴重な緑である |
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上左 神社正面鳥居 鳥居の門前は狭い路地の飲食繁華街だ 上中 櫻門右わきにある道標 秋風に またこそ訪(と)はめ 津の国の 生田の森の 春のあけぼの 順徳院の歌が彫られている 上右 右 兵庫 播磨道 左 京大阪 布引滝 十三丁 住吉二里三丁 西ノ宮四里三丁道 と歌の反対側の面に彫られている |
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左 箙(えびら)の梅と碑
源平盛衰記には源平一の谷合戦の時梶原景時・景季父子は生田森で平家方の多勢に囲まれて奮戦した時の様子を『中にも景季は心の剛も人に勝り数奇たる道も優なりけり 咲き乱れたる梅が枝を箙に副へてぞ挿したりける かかれば花は散りけれども匂いは袖にぞ残るらん 吹く風を 何いといけむ 梅の花 散り来る時ぞ 香はまさりけり という古き言までも思い出でければ平家の公達は 花箙とて優なりやさしと口々にぞ感じ給いける と称讃の言葉で現わしている
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子日庵一草の句碑
神垣や 又とをらせぬ
梅の花
とあり裏面に
文化元甲子春 子日庵一草
この句は源平合戦の際に源氏の若武者梶原源太景季が咲きほこる梅の一枝を手に折って箙にさし獅子奮迅の働きをした故事をふまえこの生田の森は神聖な境内であるから二度と箙の梅は折らせないと詠んでいる
謡曲 箙と梶原景時
源平合戦の際、梶原勢の「生田の森の二度の魁さきがけ」と言われた時に、梶原源太景季がこの梅の一枝を手折って箙に挿し挺身奮戦したことによってこの名が起こったと伝えられています |
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上左端 生田の森入口とさざれ石 上中 史蹟生田の森 この森は1336年(延元1・建武3)に九州から東上して京都を目ざした足利尊氏が新田義貞の軍を破った古戦場でもある 又戦国時代には、織田信長軍と西隣にある花隈城主荒木村重軍との合戦地でもある 上右端 活田(生田)の桃の木と由来書 凡そ1300年以上前の日本書紀天武天皇9年の条に 丙申(01.20 正月20日)に攝津国言さく 『活田村に桃李実れり』 とまうす とある これは司馬遷 史記 列傳 李將軍列傳に「諺に曰く、桃李言はざれども下自ずから蹊を成すと(桃やスモモは物を言はないがその下に人が集まり路ができる) 此の言は小なりと雖も以て大に諭(たと)ふ可きなり(この言葉は小さなことを言うようだが大きなことに譬へることができる)」とあり桃李は李将軍の徳の譬へであった と言う例えを摂津の国守が知っていたと言うことだ |

生田の池
しぐれゆく 生田のもりの こがらしに 池のみ草も 色かはる頃 藤原定家
人住まば さらにや問はむ 津の国の 生田の池の 秋の月影 順徳院
津の国の 生田の池の いくたびか つらき心を 我に身すらむ 拾遺和歌集 知れず
問へかしな 生田の池の 月影も 杜の秋風 吹くにつけても 夫木和歌集 藤原俊成 |
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左 梶原の井
かがみの井 とも云われ壽永の昔(800年前)源平生田の森の合戦の折梶原景季がこの井戸の水を汲んで生田の神に武運を祈ったと伝えられる 又別説では梶原景季がこの井戸の水を掬ったとき咲き誇った箙の梅の花の影が映ったとの伝説もある
けふもまた 生田の神の
恵かや ふたたび匂ふ
森の梅が香
梶原 景季
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左 敦盛萩の碑
碑によりると・・・
寿永の頃 無官大夫敦盛は深く此の萩を愛し和歌をも作られたそうです 敦盛の亡き後その遺子が賀茂明神に祈請した所御告げを受け遥々生田の地を尋ねて参りましたらたまたま休憩がてら寄り掛かった萩の木陰に亡き父の姿を見父と子の感動の出逢いとなったようです 謡曲「生田敦盛」に基づいた伝承なのではないかと思われる 16歳で亡くなった敦盛に子供が・・・・などと邪推などしてはいけない これは謡曲だから |
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左 敦盛萩
藤原俊成
聞きおきし 生田の森の 秋風も
荻の葉よりや 身にはしみけむ
後拾遺集・恋 よみ人しらず
心をば 生田のもりに かくれども
恋しきにこそ しぬべかりけれ
後拾遺集・雑歌 赤染衛門
ありてやは 音せざるべき
津の国の
いまぞ生田の 杜といひしは |