山寺の 春の夕暮れ 来てみれば 八相の鐘に 花ぞ散るべき                      新古今和歌集 能因
み仏の 誓ひは重き 立石寺  願ふ心は かろくあるとも                     御詠歌
山寺の 入相の鐘 うちそへて 鹿の鳴く音ぞ 秋は悲しき                           林下集 藤原 定実
山寺の 入相の鐘 たぐひつつ ほのごゑすなる よぶことりかな                      教長集 藤原 教長
 
大正四年に作られた追分石には  距
右 天童驛壹里三拾貮町 左 漆山驛壹里貮拾五町
  山形驛 三里貮拾七町至 山寺奥の院 貮拾六町   

県道19号と県道111号の分岐点にある 曾良日記には『山形へ趣かんとして止む』とあり山形まで行こうとしたが断念して大石田へ戻っている

『まゆはき句碑』     この小道が奥の細道で芭蕉と曾良が山寺に向った道である 眉はきを 俤にして 紅粉のはな はこの辺りで詠んだという
山寺は全国に存在すので果たして歌の山寺か立石寺か否かは不明
     
閑さや 岩にしみ入る 蝉の声   芭蕉
能因は知らなくとも、今やこの句の知らない人はいないでしょう。誰もが一度や二度は訪れたことの有る山寺 立石寺だが芭蕉は当時余り感心が無かったらしい。尾花沢で『是非一度は見ておけ』と周りの人の強い勧めで山形へ向かったようだ。奥の細道の中に『山形領に立石寺と云ふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に静閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依りて、尾花沢よりとって返し、其の間七里ばかり也。日いまだ暮れず。梺の坊に宿かり置きて、山上の堂にのぼる。岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧り土石老いて苔滑かに、岩上の院々扉を閉ぢて物音きこえず。岸をめぐり岩を這いて仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ。』と書いている。松嶋や象潟に劣らぬ相変わらずの名調子の文脈であるが薦められなかったら足を向けなかったのです。所が彼の思わぬ一句により後世奥の細道一番の人気スポットとなり、今や数多くの人々の山寺詣でが始まったのは皮肉な事です。彼こそ日本の歴史上最大のコピーライターであり奥の細道はそのキャッチコピーの集大成なのだ。でも今度山寺見物に行く前には開祖慈覚大師を調べてから行くと『蝉の声』とは違った山寺を知るかもしれないでしょう。彼の俗名は円仁だが死後は朝廷(清和天皇)から日本で最初に大師号慈覚を頂いた人なのです(例えば最澄は伝教大師等)。彼は最後の遣唐僧であり、帰朝後に記した『入唐求法巡礼行記』はマルコ・ポーロの『東方見聞録』・玄奘三蔵の『大唐西域記』と共に世界三代紀行文として中国及び仏教国を表す一級の古代史と言うのです。延暦寺三代天台座主であり、貧しい坂東・陸奥・出羽を中心に(栃木県生まれのせいかも)彼を開祖・中興とする寺社は全国に300とも400とも言われるのです。陸奥出羽ではここ立石寺 松嶋瑞巌寺 平泉中尊寺・毛越寺 青森恐山 秋田象潟坩満寺 山形霊山寺(瀧山)をはじめ著名な寺院は殆どが慈覚大師に依る物と伝えるのです。山形県だけでも11ヶ寺もあるのです。多分に造り話だが話半分以下としても彼の布教の執念・熱意をついた喩えだろう。例えば860年(貞観2年)立石寺開基にあたり砂金壱千両・麻布30反をもって田んぼ380町歩を買い取り寺領としたと言うのです。元慶の乱(秋田蝦夷の反乱)が878年(元慶2年)である事からしてその凡そ20年も前にこんな山奥の蝦夷の地にかくも莫大な支払いをしたのでしょうか?これこそ彼の陸奥に対する執念の現れではないでしょうか。
その慈覚大師は864年(貞観6年)に入滅したのです。その時彼は生前から比叡山には開祖最澄以外の御廟の建立ご法度の遺言状を残していて、自分の墓を比叡山に置く事を禁じていたのです。立石寺には昔から立ち入り禁止の洞窟(入定窟)が在りましたが戦後昭和24年に其の関心が高まり学者による科学的調査が始めて行われたのです。するとそこには何と5体の人骨があったのです。そしてそれ等の総ての頭部がなく代わりに一個だけ欅の一木づくりの頭部彫刻が有ったのです。そして科学者による鑑定の結果『平安初期・写実的・個性的・風格ある高僧の雰囲気・京都の仏師の作・転がらないように後ろが平に成ってる・黒漆金箔押しの立派な棺桶』から総合判断して科学者は『時仮葬された慈覚大師の遺骸は頭部は比叡山に置き胴体だけをここ立石寺に運び込みその時頭部の代わりに精巧な木造彫刻の頭部を入れて運ばれここ入定窟に葬った』と結論付けたのです。つまりここ山寺は慈覚大師の分骨埋葬の地であったのです。伝説にも『慈覚の御入滅を示されると雖も、棺中より飛び出し、紫雲に乗って彼国に到る』とあり彼国とは出羽の国であり当然立石寺であるのは理の当然である。でも不思議なのは5体の遺骨のうち1体が女性の遺骨だったのです。これはこれからの検証課題でしょう。当時比叡山は女人禁制の聖地であり女性の入山は聖山の穢れを意味していたのですから当然ご法度です。後年其の事で悩んだのが親鸞聖人です。彼はある女性から『比叡山は鳥や獣のメスが既に入り穢れている。何故人間のメスが入れないのか』と詰め寄られ言葉に窮したと言う。真に其の通りですね。後に親鸞は肉食妻帯の初めての僧となるのである。『色と欲から生まれた人間が色と欲から離れられない』矛盾に悶絶して彼は比叡山を下りたのは有名な話だ(浄土真宗の開祖)以上話はそれましたがつまりここ立石寺は宗教家の鬼気迫る天台宗の聖地であり、本来決して『岩』を見たり『蝉の声』を山形名物の『玉蒟蒻』を食べながら聞きに行く所ではないのです。慈覚大師の御遺骸があなたの足元に眠ってるのですから。今も入定窟は立入り禁止です。物凄いお坊さんが眠る神聖なる山寺なのです。合掌
(平成19年3月25日)(参考 奥の細道 講談社 HP岩舟町 郷土史辞典山形県 昌平社出版 山形市史  出羽路の芭蕉 立石寺)

         山寺