音に聞こえし羽黒山・月山を遥かに伏し拝み、夫より飯田楯岡を過ぎれば道の辺りに稚木の森とて一村の木立あり、盛安が妻かくなん
    名にし負はば こと問いもせめ 憂き旅を 我も伴ふ 稚木の森           戸沢盛安女

 若木(おさなぎ)神社東村山市東2丁目
東根市にもう稚木(おさなぎ)の森はない あるのは広大な陸上自衛隊神町駐屯地・水田・さくらんぼ等の豊かな農地だけだ 

神町林檎の碑
若木神社
の隣若木山の公園にある 林檎を1000年前の古い字体で『千宇古宇之碑』と彫られている ここ神町地区若木(おさなぎ)郷は疲弊した農村の振興策に国策に近い県の主導で開拓され林檎・さくらんぼの植林が推進され稚木の森とも云うべき松林は消滅していったのでしょう その記念碑なのでしょうか
決して歌枕の地ではないのですが大日本地名辞書(吉田東伍)の中の『羽前北村山郡神町(ジンマチ)』の項に載っていました。呼び方の『オサナギ』と言う意外性に惹かれて載せてみたのです。そこには『今、東根町の大字とすれど、・・・・南(天童)(楯岡)の大道(羽州街道・現国道13号)にあたれるのみならず、・・・・神町原とは、即、若木原(ワカキハラ)にて、若木山は、神町の東傍らの丘垤なり』とあった。実はこの件について東根市に問い合わせたところ教育委員会生涯学習課の矢野宏史氏から実に懇切丁寧で詳細な御解答を頂きましたのでそのまま記載する事にしました
      「戸沢盛安女」及び「稚木の森」について 
@戸沢盛安は、初代新庄藩主戸沢政盛
〔天正年間(157392)生まれ〕の父で、戦国時代末期に角館城主であった人物と思われます。戸沢盛安は、狩りのとき百姓の家に一泊し、その家の娘と一夜を過ごし、娘は男子(のちの政盛)をもうけたのですが、一夜の関係でできた子供なので、盛安は子供として認めなかったそうです。その後、母親は子供の政盛を連れて山伏に嫁いだとされています。一方、盛安は小田原参陣中に急死し、弟の光盛が跡を継ぎましたが、光盛も秀吉の朝鮮出兵のため肥前名護屋に行く途中の姫路で急死してしまいました。盛安も光盛も(認知した)子供がいなかったことから、戸沢氏の家臣たちが政盛を探し出し、母親の元から連れ出し、元服させ「戸沢安盛」と名乗らせ、届けを豊臣家に出しましたが、却下されます。そこで、家臣団が徳川家康に援助を求め、戸沢氏の跡継ぎにやっと認められました(その後、安盛は鳥居忠政の娘と結婚し「政盛」に改めます)。このような関係で徳川家譜代扱いの大名となり、元和9年(1623年)の最上家改易後、戸沢政盛は新庄藩主となりました。 Aこの場合は、「女」は“むすめ”と読むのが歴史では普通ですが、上記の経過から盛安の娘はいないと思われ、新庄藩戸沢家系図でも見つけることができませんでした。ほとんど無いですが、仮に“つま”と読むとしても和歌を詠むような教養があったか疑問があります。 B若木神社の縁起によれば、日本武尊あるいは慈覚大師(円仁)が開いたとされています。疱瘡(天然痘)除けの神様として祭られてきました。神仏混交(修験道系)の神社で幕末までは日輪寺石宝院というお寺が別当寺(神宮寺)でした。かつては疱瘡にかからないよう願う参拝者で賑わったそうで、上京の途中神町を通った、勤皇の志士として知られる、清川八郎も子どもの頃参拝したことがあると旅日記に記してあるそうです。しかし、神仏分離令や種痘の導入により明治20年(1887)ごろには石宝院の建物を各地の寺院に売り払わなければならないような状況になり、ついには廃寺となりました。また、若木神社の本殿は元々若木山山頂にありましたが、戦時中に対空監視所が山頂に置かれたため、麓に移転し拝殿をかねて現在に至ります。 
C神町は、万治元年(1658)羽州街道沿いに(佐直(サジキ)与右衛門という人物が中心となって、松林を開墾し新町新田(のちに神町村)を開きました。そのいわば鎮守様として東根市と天童市の境にある水晶(精)山にあった寺社を移転させ、東根の若宮八幡神社の別当寺だった清朝寺大宝院の弟を住職につれてきたことが古文書からわかっています。Dまた、現在の神町を貫く羽州街道は江戸時代初期に久保田(秋田)藩主佐竹義宣が参勤交代のため切り開いた道路で、秋田街道・佐竹道路とも呼ばれていました。それまでは、奥羽山系の西の山裾を蛇行した道が主要道路で、江戸時代の絵図面に古街道・古往還と記載されています。E神町周辺は、戦前までは村と村までは「昼なお暗き」松林の中を羽州街道が通っているという状況だったそうです。また、村から少し外れたところに狼(野犬?)から襲われて死んだ人を葬った狼塚(お犬塚)と呼ばれる塚があったそうですが、現在は残っていません。この和歌がいつ詠まれたものなのかわからないので、「戸沢盛安女」が出羽国の人物という前提で調べましたが、以上のことから、「戸沢盛安女」が若木神社近辺で歌を詠むには時代的にずれがあり、お尋ねの「稚木の森」が東根市の若木とは言えないと思われます。また、東根市にはこの歌に関する話はまったく伝わっておらず、史跡等も無いという状況です。昨日『永慶軍記』を詠み、歌にある「稚木の森」は文章からすると、神町の若木に当たると私は思います。しかし、『永慶軍記』のなかの内容は史実と大きく異なり、現在では単なる物語の扱いでしかありません。特に、関が原頃の若木は人家はもちろん道も無く、まさに深い森の中にわけいりで、戸沢盛安の妻が若木近辺で歌を詠むことはありえない状況です。、『永慶軍記』のなかで、戸沢盛安の妻と結城秀康の下を目指している子どもは、現実には戸沢政盛(10代前半ですが)として上杉を攻める最上勢の後詰として、角館を出陣し現在の新庄あたりで庄内から侵攻する上杉勢を牽制する活躍をしています。このようなことから、『永慶軍記』の作者の詠んだと思われる歌を史蹟扱いはしていないということをお伝えしたいところです。以上の次第であるが5万分の1の道路地図で東根市の稚木を捜してもそんな地名はないのです。有るのは若木で若木神社・若木山公園・若木通り1・2・3・4・5があり『おさなぎ』と振り仮名がうってありました。稚も若も幼いのイメージで文字とイメージがマッチしてるとは思いませんか。いずれにしても凄い森があったことは事実のようです。稚木の森は今陸上自衛隊東北方面隊第六師団司令部神町駐屯地や赤いダイヤさくらんの佐藤錦の発祥の地としてさくらんぼ生産日本一で果樹王国ひがしね宣言をした。
(平成20年1月4日)(参考 大日本地名辞書 富山房 東根市教育委員会生涯学習課矢野宏史資料 東根市 マップル山形県道路地図 昭文社)
       稚木の森