いかにせん 写る姿は つくも髪 わが面影は はずかしの川                中将姫

   阿古耶姫の越え玉ひし川とて川水地下をめぐりて流れ形を隠し福の神と申す所に地中より湧出
水かがみ 見るもやつれて 俤の はずかし川を 渡りこそすれ            戸沢盛安女
 

左上 平清水の源泉
平清水家の家祖 黒金穆弥 は下野国造下野氏の末裔で神亀の頃(734〜738年)下野国より按擦使として一族等と共に下向したと伝えられ居を千歳山の南麓の地に構えたが水のないのを憂い杖を地に穿った処忽然として清水が湧き出したのでこの泉を『平清水』と称したと言う 
これよりは彼は平清水下野穆弥と称しその後この平清水を慕ってくる人達によって集落が形勢され平清水の村名になったと伝えている




左下 平清水源泉
 穆弥が杖で掘ったら清水が沸いたと言う処 
恥川の文字を見て40年前に読んだアメリカの女性人類学者ルース・ベネディクトの『菊と刀』の日本人論を思い出しました。アメリカが日本の占領政策に当り日本人の本質を知る必要から出版されたもので、昭和23年には日本でもベストセラーとなった古典的名著の日本人論である。詳細は忘れたが欧米人は神との契約違反(モーゼの十戒等個人の内面に善悪の絶対基準もっている)を最大の悪とする神に対する『罪の文化』と、世間に顔向けできないと言う世間体や外聞と言う他者からの評価を第一の基準とする『恥の文化』をその本質とする日本人を書いたものである。今の日本人には『恥ずかしい』とか 『世間に顔向け出来ない』と言った心情は既に過去の遺物になって久しいのである。コンビニの前の道路に胡坐をかいて物を食べてる若い男女学生や、無計画に借金して自己破産して平気な人々、公共の面前で平気で化粧するご婦人等羞恥心を失った日本人はその方向舵を失った飛行機の様にダッチロールを繰り返して行方定まらぬ民族になってしまった。ここの恥川伝説は実方が道祖神の前を下馬せずに通過した不敬の天罰で落馬して死亡してしまったので、その娘十六夜姫,、又の名を中将姫は父の眠る千歳山の墓を訪ねんと遥か京の都から幾山河を越え悪路の雑草の露を踏み分けやっとの思いで千歳山の麓に辿りつき、墓参りに詣でるため旅姿の乱れを直そうと近くに流れていた小川に自分の姿を写してみたところ余りの顔のやつれ、髪の乱れ、衣服の乱れに驚き恥じ入り口ずさんだのが
   いかにせん 写るすがたは つくも髪 
                  わが面影は 恥かしの川

と呟いたと言うのです。すると歌に感じ入った水神は姫が渡る所の流れを地下に流し水を無くしたと言うのです。その後に彼女は40年間千歳山万正寺に庵を結び父の霊を弔い1036年
(長元9年)9月15日に没したと言うのですがいかがでしょうか? 
己の容貌・己の衣服 己の乱れ髪への羞恥心こそ日本人の奥ゆかしい恥の文化ではなかったのではないでしょうか。。いまこの川は千歳山南面の平清水を流れているが、両側はコンクリートであり情緒・風情は余り感じられない細流で、狭い山すその住宅地の斜面を縫うように流れて南一番町で天沼に注いでいる。千歳山南面の恥ずかし川流域一体は平清水と言ういかにも由緒ありげな地名なのです。其の由来は何と神亀元年年(724)下毛野(しもけぬ・栃木県)の国から黒金穆弥(くろがねぼくや)なる人物が山形に下向してきた時、水が無いのを嘆き杖で地面を叩いた所突然清水が湧き出たのです。それでこの地と自分の名を平清水と変えたと言うのです。其の源泉が今も平清水久右エ門氏宅にあり、又その時持参したと言う樹齢1100年を越す天然記念物の『最北の柊』が現存しているのは実に生々しい話です。平清水(佐久間)家は1645年(正保2年)佐久間久左衛門時代には山形藩領の大庄屋としてその1/3を支配していたと言うのです。1804年〜1818年には福島県の勿来から小野藤治平、1818年〜1830年にはやはり福島県相馬から安倍覚左衛門なる陶工が来て窯業の指導によりこの川の両岸には最盛期には20近い窯が存在したと言う。今でも平清水焼として地元の人気が高いようだ。それは兎も角として翻って今日の日本の現状を見ると今や毎日マスコミ報道にあるように『恥の文化』とは程遠い恥とは無縁のニュースばかりで日本人の行く末を案じてるのは私だけではないでしょう。無作法の横行 モラルの低下 羞恥心の喪失 世間体の崩壊 公徳心の乱れ著しい今日、我々ももう一度この『恥川』で自分の素顔を写して見て『恥じの文化』を考えたいものです。(平成19年3月22日(参考文献 山形市史 山形県の歴史 河出出版新社  歌枕阿古耶の松と恥かし川の由来 田中こう)
      はずかし(恥)川