の山 曇らぬ影は いつとなく 麓の里に 住む人ぞ知る                            夫木和歌集 加賀
 久かたの 月の山辺に 家ゐして いる時もなき 影を見る哉                     夫木和歌集  岡崎 大進
 

月山8合目中の宮からの月山山頂

中の宮鳥居から月山山頂を見る
「羽黒と湯殿は山として論じるには足らない。ひとり月山だけが優しく高く立っている」 と日本百名山の作家深田久弥氏は書いている。「すべての吹き寄するところこれ月山なり」と小説『月山』の著者森敦氏も書いている。
             曇の峰 幾つ崩れて 月の山
1689年(元禄2年)6月8日 芭蕉の足跡の中での唯一の高山で生涯の最高地点が月山である。芭蕉が羽黒山から月山に登拝した時に詠んだ句である。奥の細道で彼は『8日 月山に登る。木綿
(ゆふ)しめ身に引きかけ寶冠(ほうかん)に頭を包み、強力(ごうりき)と言ふものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏んで登る事八里、更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶え身こごえて頂上に至れば、日没して月顕(あらわ)る。笹を敷き篠を枕として、臥して明くるを待つ。日出でて雲消ゆれば湯殿に下る』とある。ここで驚異的なのが月山山頂で一泊して湯殿山へ下り再びもと来た道を月山から羽黒山に戻ってるのです。つまり丸2日で凡そ往復18里(凡そ72km)も険しい山頂を上り下りしている事です。現在でも夏スキーのメッカで残雪の多い山間部である。食料も不自由な時代の彼等の行程は栄養過多の現代人にはとても追いつけないのです。その健脚振りは信じられないのです。いかに現代人が精神のみならず肉体の軟弱化が激しいか驚くばかりです。湯殿山は1.500m、月山は標高1998.4mあり高層湿原・高山植物・亜高帯針葉樹林等やオコジョ・イワヒバリ等の珍しいも確認されていて天然保護区域(天然記念物)に指定されている。出羽三山の主峰であり勿論日本百名山の一つでもある。山頂には月読命(ツクヨミのミコト)を祭神とする月山神社がある。月読命は月を神格化して夜を統べる神とされていて『そなたは、夜を召し上がる国を治めたまえ』と命じられたのですが記紀神話では兄弟である他の二神(天照大命・須佐之男命)と違い殆ど活躍の記述がないのです。太陽を象徴する天照大神(アマテラスオオミカミ)と対になっていると言う。万葉集には  天橋も 長くもがも 高山も 高くもがも 月夜見の 持てる越水(をちみづ) い取り来て   公(きみ)に奉りて をち得てしかも

と詠まれている。古事記によれば共に伊邪奈伎命
(イザナギミコト)の右目と左目から生まれたと言う神話も面白いし、更に鼻から生まれたのが建速須佐之男命(タケルハヤスサノウノミコト)と言うのだが古代人の発想・想像力の豊かさとユニークさには頭が下がる思いです(この三人の神様は三柱の貴き子と呼ばれる)。其れは兎も角として月山と月読どちらが先かは知らないが月とは縁が深かったのだろう。月山に鍛治小屋なる山小屋がる。そうなんですここ月山は鎌倉時代以降名刀月山鍛治の発祥の地だったのです。『室町期 霊峰出羽三山の一つ月山の地に綾杉の秘術をもって知られる刀工集団あり。乱世の終りと共にその姿を消し、約二百年の時を越え、浪花の地に「月山弥八郎貞吉」によって蘇り、養子「月山弥五郎貞一」の技量をもって揺るぎ無き名声を築き、今に続く名流となる。』(刀銘月山定光作より)とあり往時は寒河江・谷地辺りが月山刀工の中心地だたらしい。元祖は奥州月山鬼王丸と言う。2代目月山貞一は昭和46年4月人間国宝(重要無形文化財)に認定されてる。おくの細道で芭蕉も『谷の傍らに鍛治小屋と云ふ有り。此の国の鍛治、霊水を撰びて爰に潔斎して剣を打ち、終に月山と銘うを切って世に賞せらる。・・・』と書いている。又月山は豪雪で有名で真冬には交通不能になる為スキー場は乗鞍・立山と同じく4月〜7月の夏スキーが有名である。この様に月山に降り注いだ雨や万年雪が浸透し、伏流水や多くの河川となって庄内平野を潤し庄内の米、庄内のだだちゃ豆、庄内の民田茄子、庄内の酒となるのです。月山の恵みが一杯の庄内平野なのです。(平成19年11月2日)
      めずらしや 山をいで羽の 初なすび  芭蕉
(江戸古名山図譜 小学館 おくの細道 講談社学術文庫 古事記・日本書紀の神々 新人物往来者  口語訳古事記 文芸春秋 みちのく・ふくしま歴史文学紀行 歴史春秋社 黒川能の里 清流出版)
       月山