陸奥の 阿古耶の松に 木がくれて 出でたる月の 出でやらぬかな          夫木和歌集 読み人知らず
陸奥の 阿古耶の松を 尋ねわび(えて) 身は朽ち人に なるぞ悲しき     平家物語 阿古屋の松の段
木がくれて 昔も今も 出でやらぬ 月を阿古耶の 松といふらん        堀河百首
おぼつかな いざ古への こと問はむ あこやの松と 物語して               百首  源 顕仲
奥の 阿古耶の松も 人ならば 忍ぶ昔の ことや問はまし               百首  一条兼良
住み詫びて あこやの松を 思ふぜよ 我にしばしの 木隠れもがな           集 釈 正広
思ひきや 今宵の月を 陸奥の 阿古耶の松の 蔭に見むとは                 沢庵禅師
千歳山 千代もとかけて めでたきは 阿古耶の松に 木がくれの月          沢庵禅師
陸奥は ひろき国ぞと 聞くものを 阿古耶の松に さわる月影         木和歌集 読み人知らず 
長徳元年(995)9月27日 藤原行成との歌の確執から一条天皇により『歌枕をみてまいれ』との一声で陸奥守に任ぜられた藤原中将実方が、陸奥国にあるという歌名所阿古耶の松を国中探したが見つからない。探しあぐねて塩竃明神に詣で道を尋ねると老人があらわれ『汝何が故に阿古耶の松を尋ぬるか』と問う。実方は『我はこれ勅命を被る者 古の木隠れの歌によりその所在を尋ねんとす』と答えた古老は『確かに昔は阿古耶の松は陸奥にあったが今は出羽国にある』 と答えたという逸話が残っている。彼は知らなかったのかも知れない。280年も前の和銅5年712にそれまで陸奥国であった山形県の置賜 最上を割き新庄と併せて新たに出羽国が設置されていたのを。つまりそれまでは阿古耶の松は陸奥にあったのです。それほどこの阿古耶の松伝説は都の人々の話題の種だったに違いないのだ。早速彼は出羽の国に向かうのだが此処で説が二つに割れるのである。一つは『彼は阿古耶の松を見なかった』 もう一つは『彼はそれを見た』 という説である。上の二つ目の歌が彼の歌であるが 前者なら『・・・たずねわび・・・』と無念の歌になり、後者なら『・・・たずねえて・・・』と満足感の歌となるでしょう。というのは彼のこの歌は、名取 笠島の道祖神の前を下馬しないで行き過ぎようとしたために落馬して亡なる間際に詠んだとされる謂わば辞世の句なのだが、それが行きの時なのか 帰りの時なのかはっきりしない。死に臨んで彼は『願わくば我が骨を千歳山阿古耶の松の傍らに葬れかし、京に遺れる中将姫に我が死を告げよ』 と語り無念にも野辺の露と消えたのです。所でその中将姫は清少納言であるとの説が有力ある。清少納言もその枕草子に『松の緑も常盤なる その名変らぬ千歳山 覚束なくも松蔭に いざ古への言問わん 実方朝臣の慕いけん』と書いている。後世の人までも悩ませ直情的だが正直な育ちのよい貴公子が真っ先に望んだのが阿古耶の松なのだ。『阿古耶の松・武隈の松・姉歯の松をして陸奥の三松』と言う。(千歳山萬松寺阿古耶の松栞)(平成15年9月15日)

山形県庁から見た千歳山


千歳山の麓にある萬松寺 山形市平清水
北東から見た標高471m千歳山だが西側から見ると完璧な神奈備山でその容姿は実に美しい 国有林で自然休養林となっている 県庁所在地の市のど真ん中に神奈備山があるのはここだけである 国道13号線と国道288号線の交わる松山交差点の地にある

阿古耶の松








全山赤松に覆われた あの阿古耶姫を開祖とする 古代の夢と浪漫の歴史を秘めている