海 上 潟
上海上国造(かみつうなかみのくにみやつこ)は上総国海上(現在の千葉県市原市養老川流域一部)を支配した国造  下海上国造(しもつうなかみのくにみやつ)は後の律令制の下総東部(現在の千葉県旭市・銚子市および香取郡一帯)を支配した国造  ここは市原市の地を念頭にした(ウイキペディアより )  とにかく地形的に見て嶋穴郷や嶋穴神社や嶋穴駅古養老川とかかわりの深かったことは間違いない 嶋穴郷の西側は河口となって東京湾に面しておりそこには海上潟と呼ばれた天然の良港があった 海上潟は万葉集巻十四の東歌の冒頭に『夏麻(なつそ)引く 海上潟の・・・の巻14-3348』の歌が詠まれてる 『船はとどむめ』と詠まれているので海上潟が港津として利用されていたことは明白である 海上潟は古養老川の河口近くに形成された潟湖であろうと推測されるので河口・下流の右岸に位置していた嶋穴郷に隣接していたと思われる おそらく嶋穴郷の海岸の前面が海上潟であり嶋穴郷は海上潟という天然の良港の背後集落であろう したがって海上潟を擁して河口・下流右岸に位置する嶋穴郷は東京湾と古養老川を結ぶ水上交通の拠点となっており水運に長じた海人が少なからず居住していたと考えられる(http://douraku-yuyu.net/f_shinkou15.html 道楽悠悠より)  宝亀2年(771)以前の古東海道は足柄峠~坂本駅~小田原~平塚~鎌倉郡衙~三浦半島横須賀走水~東京湾~房総半島上総国のルートであった       
夏麻引く 海上潟の 沖つ渚に 船はとどめむ さ夜更けにけり    万葉集巻14-3348
夏麻引く 海上潟の 沖つ洲に 鳥はすだけど 君は音もせず
      
万葉集巻7-1176
  
上  海上潟河口と釣り桟橋 市原市五井南海岸1-12  下左 養老川(https://www.jalan.net/) 外房海岸清澄山系から半島を北上し市原市五井で京葉工業地帯の内房東京湾に注ぐ県内屈指の2級河川 下右 養老川河口(https://chiba-tsuri.net/) 今や工場地帯に囲まれているが河口は養老川臨海公園になっていてオリジナルメーカーの海釣り公園になっている 入園料が必要 夏麻(なつそ)とは夏に生育・収穫された麻 シャリ感や光沢のある夏向き洋服の素材 その面影は勿論皆無 
 
上 上総国海上郡 延喜式内社嶋穴神社  市原市島野1129  所在地の島野和名抄の烏穴郷に比定されシマアナシマナにさらにシマノに変わったもの 又この地は『延書式』の兵部式に『大前、藤瀦、島穴、天羽各五匹』と記載され上総国府から安房国府に通じる宮路で上総国の古代交通の要所であった 古代の道路要所だったが今や田圃の中の小型車がやっと通れる畦道の行き止まりでこの橋は放崩壊防止のため通行止め 今からおよそ1800年前の景行天皇四十年(114)日本武尊が東征の折り相模国走水より上総国へ航行中に暴風に遇われあやうく船が覆りそうになった時同乗していた妃君の弟橘姫命が大和国の風鎮めの神・龍田大社を遙かに拝み『安全に上総国まで航行させてくれるならば必ずその地に風鎮めの神を祭り報恩感謝の誠を尽くします』と祈りながら海中に身を投じた するとたちまち暴風は止み無事上総国へ着くことができたので日本武尊は弟橘姫命のご遺志の通りこの地に志那都比古尊を祭る当宮をご創祀された のち景行天皇が当地へ行幸の折(127年)日本武尊・倭比売尊を合祀した(ウイキペディア)
 
 
 上 東京湾アクアラインPA 海ほたる(木更津人工島)から海上潟方面を望む フードコートにある店舗のひとつ波市のあさりラーメン  東京湾を暴風雨で命からがら渡った日本武尊や平家側に破れ散々な目に遭いかろうじて逃亡渡海した源 頼朝もこの高速道路にはさぞや驚愕・感無量だろう(*^▽^*) 木更津~PA往復800円
 
 上左端 東京湾古東海道の図(http://3.bp.blogspot.com)   上右3つ 護念山證城寺(しょうじょうじ) 木更津市富士見2-9-30  中 狸塚 昭和4童謡誠城寺の狸囃子の流行を祈念して木更津町皆実町盛年会が  右 ♪ 童謡碑 野口雨情・中山晋平の直筆が発見されたを機に昭和31年に建立  證城寺の狸囃子は大正13年野口雨情jが木更津市を訪れた折り證成寺に伝わる狸囃子伝説を知ったのを機に作詞を行い中山晋平がその詩に曲を付けて児童雑誌金の星に大正14年(1925)に発表した