墨  田  川  3
言問橋~両国橋
すみだ川 瀬霧にむせぶ 水のあわの 哀れなにしに 思ひ初めけむ            新勅撰和歌集   藤原 盛方
すみだ川 堤にたちて 船まてば 水上遠く 鳴くほととぎす                  うけらが花   橘 千蔭
都おもふ 有明の月の 墨田河 おもかげばかり 千鳥鳴くなり                百首歌波千鳥   寂蓮法師
ききなれし 千鳥鳴くなり 墨田川 いざ言問わん なにおわずとも              夫木和歌集  民部卿 為家
都鳥 いくよかここに すみだ川 ゆききの人に 名のみとはれて                 新後撰和歌集 法印清譽
    
  都立横網町公園 旧陸軍被服廠跡地   墨田区横網2丁目3−25  左端 東京都慰霊堂 ここは元陸軍被服廠の赤羽移転に伴い大正11年東京市が跡地を買収し公園造成の最中の所翌大正13年(1923)に発生した関東大震災で恰好の避難場所と判断した周辺の人々が運び込んだ家財道具に引火折からの風速17mの強風に燃え上がり凡そ58000人の焼死者が出た その遺骨を納めるために昭和5年慰霊堂が建てられた 更に昭和20年の東京大空襲による死者凡そ11万人殉難者の遺骨も併せて現在訳16.5万人の遺骨が安置されている 中 東京大空襲犠牲者追悼碑 昭和17年4月18日の初空襲から20年8月15日までの米軍による度重なる空襲により甚大な被害を受けた非戦闘員の犠牲者名簿が収められている 右端 震災避難児童弔魂碑 大正12年9月1日の大震災で東京市内小学生児童5000人の死を弔うために全市小学校弘長が弔魂碑建立を計画寄附を募り昭和6年に建立除幕式が行われた
  
左端 当時東京市長永田秀次郎句碑  焼けて直ぐ 芽ぐむちからや 棕梠(しゅろ)の露  中央 震災復興記念館(公園内) 関東大震災の惨禍を永遠に伝えるために官民協力して焦土と化した東京の当時の大災害を記憶に残すために建てられた 一部野外にも被災残骸物品が展示されてる 右端 幽冥鐘梵鐘  関東大震災により遭難した死者を追悼するため中国仏教徒会から寄贈されたもの 震災の悲惨な凶報が伝わった中国では杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺でそれぞれ念仏法要が営まれ中国在留の同胞に対しても参拝を促した 各方面の回向が終わった後は「幽冥鐘一隻を鋳造して之れを日本の災区に送って長年に亘って撃撞し此の鐘声の功徳に依って永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣言した 現在も尚つづく日中両国関係の長く深刻な問題の発端の満州事変(支那事変)は昭和12年でありその15年前の日中関係は極めて良好な関係であった証だ 今となってはかくの如き中国の姿勢は望めない 堂の中には入れない 
   
左端 鷹狩の徳川家康像 墨田区横網1丁目5-5 後ろは日本大学中高校舎 江戸東京博物館脇の歩道にある 台座より高さ7m 重量30t 中央 本所御蔵跡 墨田区横網町遺跡 江戸時代この辺りに江戸幕府の米蔵があった  右端 作家船橋聖一生誕の地碑  墨田区横網町1-11 国技館の隣 第一回NHK大河ドラマ花の生涯作者 日本文芸家協会の設立に奔走 昭和21年に協会は誕生し菊池寛が初代会長 舟橋聖一は初代理事長に就任 当初横網町を近くが国技館なので『よこづなちょう』と読んだが『よこあみ』だった
  
 左 都名勝旧安田公園 墨田区横網1丁目12−1 元禄年間(1688?1703)に常陸国笠間藩主本庄因幡守宗資により築造され元墨田川の水をひき入れ潮の満ち干を再現した汐入回遊式庭園 明治維新後は旧備前岡山藩主池田侯の邸となり明治22年に安田財閥安田善次郎氏の所有となり大正11年東京都に遺贈された  右 両国国技館 墨田区横網1丁目3-28  総武線両国駅前  相撲の起源と言えば古事記のノミノスクネ(野見宿禰)の名が浮かぶ この人物は第十一代天皇の時代の出雲の人物で当 時力自慢で有名だった  垂仁7年7月7日彼はわざわざ出雲より大和に呼び寄せられ天皇の御前にてトウマノケハヤ(当麻蹴速)という者と 相撲を取るのがその始まりとか 結果はノミノスクネの圧勝で相手を蹴り殺してしまうという残酷物語
    
横綱像  墨田区両国駅前 総武線両国駅前から国技館通り回向院に向かう道の両側にある 雲竜型・不知火型の土俵入りをしている 全部で6体の小さな力士の像がそれぞれ離れて設置されてる その像の台座部分には歴代横綱の手形と在位期間も掘られてる 左中 斉藤緑雨居住の地 総武線両国駅前 『人は常に機会を待てども機会は遂に人を待たず』『馬鹿が馬鹿を馬鹿だといえば 馬鹿が馬鹿を馬鹿だという 馬鹿で持ったる我が世なりけり』『寒い晩だな 寒い晩です 妻のナグサメとは まさに斯くの如きもの也』等名言の持ち主 森鴎外・幸田露伴とともに『三人冗語』で絶賛したほど樋口一葉の才能を高く評価し本郷丸山福山町にあった一葉の借家にもたびたび訪れ一葉は緑雨の印象を『逢えるはたヾの二度なれど親しみは千年の馴染にも似たり』と日記に記された人物  右端 両国橋からの隅田川 
 
 左端 都選定歴史的建造物両国橋 現在は武蔵国内(東京都)だが1686年に国境が変更されるまでは下総国(千葉県)との国境だったことから両国橋と呼ばれる 左中 太高源吾句碑表忠碑 両国橋袂 作者は赤穂浪士の大高源吾 墨田区両国1丁目11 意味は『太陽のお蔭で、積年の厚く張った氷がたちまち融けました 我々赤穂の浪士一同お蔭さまで本懐をとげて積年の恨みをすっかり晴らすことができました』とか 後ろの表忠碑元帥侯爵大山巌による日露戦争戦没者の追悼慰霊の碑 明治40年 裏には戦死者名が彫られている 右端 忠臣蔵義士両国橋撤退図 墨田区両国1-9-10 橋の袂の立札 吉良邸からの帰路 両国橋袂で休息後無益な衝突を避けるため登城路となる両国橋を通らず一之橋、永代橋を経由して泉岳寺へと引き揚げました。
 
左端 春日野部屋 墨田区両国1-7-11 偶然にも多くのマスコミが張り込んでいた 後日過去に暴力事件がニュースになっていた 左中 与兵衛鮨跡発祥の地 墨田区両国1丁目8−7 『すし』と言えば 上方風の『押しずし』だが文政の初年(1818年ごろ)に小泉与兵衛が 江戸前の『にぎり鮨』を考案した  最初は 岡持にいれて行商で次いで 屋台での営業をした  新鮮なネタをその場で握る鮨が 江戸っ子の好みにマッチした 又 屋台に不似合いな 当時高級品だった『山本のお茶』を出して 大ヒットとなった 左中 回向院正面跡 与兵衛鮨跡の向にあり東京大空襲により焼失したため現在正面は右端の様に国技館通が京葉道路沿いに正対する位置にある 右端  回向 墨田区両国2-8-10 明暦3年(1657)の振袖大火での無縁の亡骸11万人を弔うために隅田川東岸に万人塚という墳墓を設けたのに始まる 正式名称が諸宗山無縁寺回向院という一宗一派にとらわれない無縁供養行う寺 さらに公共社会事業のため明和5年(1768)寄付集めの勧進相撲が行われるようになり天明元年(1781)から相撲史上の黄金時代の寛政~文政年間に至るまで勧進相撲の興行の中心地となる 天保4年(1833)から春秋2回の興行の定期場所制が行われるようになり 明治40年5月までここで露天の興行し後に国技館工事のため煽りを喰って墨田川の川淵で興行した 明治42年6月より境内に落成した国技館で本場所興行された それまあでの76年間は小屋掛けによる回向院相撲の時代が続いた  途中焼失があったが昭和19年1月まで場所が行われ戦後も2回本場所を打った『相撲のメッカ』
     
左 諸宗山回向院  山門入り口ある院内にある主なる石碑群の案内碑 寛文4年(1664)の登録有形文化財の江戸時代の他多数の3界万霊塔 江戸府内の無縁佛 天災地変による死者埋葬碑 近くは大正13年関東大震災の死者10万余遊園無縁の納骨堂への安置 江戸時代の雰囲気を伝える歴史的遺産ともいえる墓碑群 例明暦3年大火石塔・安政2年大地震万塔松平定信建立水子・塔猫に小判の猫塚・勧進相撲発祥の地碑の力塚・竹本義太夫墓・岩瀬京伝・京山・加藤千蔭の墓等  中 力塚 画像では小さいが3m弱の巨大な塚 昭和11年相撲協会が歴代相撲協会年寄の慰霊のために建立 周りの玉垣には玉錦三右衛門・武蔵山武等の多数の年寄のなが彫られていて裏面には歴代の年寄りの名が彫られている 右 鼠小僧之墓 
 
 左2つ 鼠小僧の墓  『天保2年8月18日 俗名 中村次良吉之墓 教覚速善居士』と彫られてる どんな所にも忍び込んだ鼠小僧に因み『すんなりと入れる・すりぬける』という事から受験生にもご利益があると言われ手前の石を削り持っていく 試しに削ってみたが結構固くなかなか削れない 刃物かバールのようなものが必要 右 左から山東京伝(岩瀬醒) 山東京山(岩瀬百樹) の墓 岩瀬氏の墓 山東京山は京伝の弟で本名は岩瀬百樹 初めは兄の京伝に倣って読本(よみほん)や滑稽本(こっけいぼん)を書いていたが後には合巻に専念し多くの合巻(ごうかん)を執筆した 安政5年(1858)に90歳没 京伝は江戸後期を代表するの戯作者・浮世絵師 本名は岩瀬醒 俗名京屋伝蔵 江戸城紅葉『』の『』に住む『京』屋の『伝』蔵から山東京伝となのった この碑の表面には『9歳の時に寺子屋に入った際親の買ってくれた机を生涯愛用しこの机で百部を越える戯作を書いた しかし50年近くも使ったので『ゆがみ・老い込んださまは哀れである』という意味の文と『耳もそこね あし(足)もくしけて もろともに 世にふる机 なれも老いたり』の歌が記されている 
    
 左端 竹本義太夫の供養塔 竹本義太夫とは江戸時代の浄瑠璃語り 義太夫節浄瑠璃の創始者で義太夫節の創始者 道頓堀に竹本座を設立し旗揚げ公演で近松門左衛門作『世継曾我』を語り以後 近松と手を組んで次々と新しい作品を発表し旧来の浄瑠璃とは一線を画す存在となりました 曽根崎心中・冥途の飛脚とう近松門左衛門と組んだで超人気となる  左中 美人画絵師 鳥居清長墓 戒名 林長英樹信士鳥居 清長とは江戸時代の浮世絵師鳥居派四代目当主 鳥居派の代表的な絵師 鈴木春信と喜多川歌麿にはさまれた天明期を中心に活躍しそれらや後の写楽・北斎・広重と並び六大浮世絵師の一人 特に堂々たる八頭身の美人画で、今日世界的に高く評価されている  右中 赤穂義士遺跡 吉良邸跡碑 墨田区両国3-13  右端 吉良上野介像
  
 左 吉良邸裏門跡高札 墨田区両国3丁目10−1 勿論回りはマンション  右 吉良邸跡地 吉良邸表門 墨田区両国3-13-29 吉良邸は広大で東西73間南北35間2550坪 浅野匠頭守による殿中刃傷事件の後の元禄14年(1701)9月3日に吉良上野介義央が当地を拝領して建設された吉良家の上屋敷跡地 現在本所松町坂公園
    
左端 上野介みしるし洗い井戸  左中 吉良邸内で犠牲となった吉良家家臣二十士 清水一学 や新貝弥七郎などの剣豪の名がある 尚新貝弥七郎は吉良家の養子となった義周の小姓として江戸吉良邸にいた時に赤穂義士の討ち入りに出くわし玄関先で浪士と渡り合い討ち死にした 後日腹中から折れた槍の穂先だ出てきたが堀部安兵衛の槍で突かれたのではないかの説あり 墓は米沢林泉寺 水一学は講談などでは剣の達人だが実際は吉良家の小姓である 右中 吉良邸前にある忠臣蔵の吉良まんじゅう 右端 塩原太助炭や跡地 墨田区両国3丁目4?1 江戸時代の豪商 幼名は彦七 裸一貫から身を起こし大商人へと成長『本所には過ぎたるものが二つあり 津軽屋敷に炭屋塩原』と歌にまで詠われる成功をおさめた 群馬県みなかみ町生
 
 左端 本因坊住居住跡 墨田区両国3-5-7 囲碁の名門本因坊の屋敷跡地 かつて織田・豊臣・徳川に仕えた本因坊算砂を開祖とする囲碁の名門本因坊家屋敷跡 「本因坊」の名は算砂が住職を務めた寂光時の塔頭の一つに由来している  中・右 芥川龍之介文学碑  両国小学校 墨田区両国4-26-6  芥川龍之介は両国小学校の前身である江東尋常小学校の出身で彼の「杜子春」の一節が刻まれてる 隣には駆逐艦「不知火」の錨も設置されてる 生まれは中央区明石町の現聖路加病院敷地 高校は両国高校
 
 勝海舟生誕の地碑  両国公園 墨田区両国4丁目25-12 園内に碑があり碑の後ろには勝海舟の歴史や功績に関わりがあった人物とのつながりなどが書かれた立派な説明板が展示されています 碑の隣には鉄製の椅子と刀が置かれていて座って勝海舟気分に浸ることもできます 咸臨丸艦長で邦人初の太平洋横断渡航と江戸無血開城の快挙
 
 

下左 石造海難供養塔(回向院)

下中 再現 与兵衛鮨
戸時代に両国(旧本所元町)で握りずしを考案した「華屋与兵衛」のすしを再現  酢飯は粕(かす)酢と天然塩のみで砂糖を使わずやや赤みを帯びる ネタは刺身でなく酢じめや煮るなど必ず仕込みがしてある マグロのヅケとアナゴは現在の倍程度の当時の大きさ

下右 吉良 まんじゅう
左端 芥川龍之介生育の地碑 墨田区両国3-22 芥川龍之介は明治25年(1892)3月1日東京市京橋区入船町8-1で牛乳搾取販売業耕牧舎を営む新原敏三・ふくの長男として生まれた 辰年辰の日辰の刻の生まれにより龍之介と命名されたと言う 生後7ヶ月で生母ふくの病のため当時本所区小泉町15番地に住んでいたふくの長兄芥川道章に引き取られ後に13歳の時芥川家の養子となりました 中右2つ 小林一茶居住の地 墨田区緑1-3-4 小林一茶は文化元年からこの地に居住していた 家財道具を運び込んだ日に『寝始る 其夜を竹の 時雨哉』と詠んでる それから5年ほどをこの地を拠点に活動していたが文化5年に旅から戻ると住んでいたはずの家が他人に貸し出されていたという悲劇にもあったがその際にも『行年を 元の家なしと 成りにけり』と詠んでるエピソードに笑ってしまいました  近くには廃れた落語中興の祖烏亭焉馬の居住跡もある