墨  田  川  2 
白髭橋~言問橋
名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふひとは ありやなしやと      伊勢物語  在原業平
墨田川と言えば何といってもこの歌であり『言問橋』はこの歌の故事に由来するが実際の渡河場所は橋場の渡し(現白髭橋)とされ言問という地名は存在しなかった  諸説の中で有力説は明治4年(1871)の創業で今も営業している『言問団子』の主人が団子を売り出すにあたり墨田川に因む在原業平を持ち出し言問団子と名付けて人気の店となり次第にこの辺が俗に『言問ケ岡』と呼ばれる様になりそれに合わせて伊勢物語の在原業平を前面に打ち出し祀ったことに由来するらしい 橋の西岸は台東区花川戸2丁目と浅草7丁目 東岸は墨田区向島1丁目と2丁目
舟わたす すみだ川原に 降る雪の 色にまがえる 都鳥かな                 頼政集  源 頼政
わがためは むすびもおかぬ いほさきの すみだ河原に 宿やからまし           新後拾遺和歌集 祝部尚長
この世には よしこととはむ すみだがわ すみえぬ方の 鳥の名もうし            新族古今和歌集 藤原隆祐
こととへど こたえぬ月の 墨田川 都のともと みるかひもなし            玉葉和歌集 後三条院権大納言典待
   
左 白髭橋 中 白髭橋から墨田川下流を見る 右 對鴎荘跡碑(手前)と明治天皇行幸對鴎荘遺跡の碑 白髭橋台東区側 南千住橋場二丁目一番 墨田川畔の橋場一帯は往時は風光明眉な地でかつては著名人の屋敷が軒を重ねていた 対鴎荘跡もその一つ 明治時代の政治家三条実美)の別邸もあった 『征韓論』をめぐって政府内に対立が続いていた明治6年10月太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れこの別邸で静養していた 同年十二月十九日明治天皇は病床の実美を気遣いこの邸を訪れている 碑はこの事蹟を顕彰してのち対鴎荘の所有者となった一市民の尽力によって建立されたもの 高さ3m余 側面に「昭和六年歳次辛未五月建之石井久太郎」 裏面に「多摩聖蹟記念館顧問中嶋利一郎謹撰 上条修徳謹書」の碑文が刻まれている
  
 左 白髭神社 墨田区東向島3-5-2 墨田川七福神の寿老神(寿老人)  右 幸田露伴居宅跡 露伴児童公園  墨田区東向島1丁目7  文豪幸田露伴が明治41年~大正13年まで蝸牛庵と名付け親しんだ住居跡 露伴は明治26年この寺島町界隈に来往してから約30年間最も力の溢れた時期を過ごした所
   
左端 幸田露伴文学碑 墨田区東向島1-7-11 『世おのづから數といふもの有りや 有りといへば有るが如く 無しと為せば無きも似たり 洪水天に滔るも 禹の功これを治め 大旱地を焦せども 湯の徳これを済へば 數有るが如くにして 而も數きが如し 「運命より」』とある 私にとり言わんとする意味は不明です((笑)  左中 榎本武揚旧居跡   墨田区向島5-12 戊辰戦争では徹底抗戦を唱えたが五稜郭で降伏 3年間投獄されたが彼の非凡な才能を黒田清隆が認め北海道開拓使として任官・駐露特命全権大使として樺太・千島交換条約を成功させた 海軍卿・駐清公使・文部大臣・外務大臣を歴任 明治28年から73歳で没するまでこの地に住む  右中 吉川英治旧居跡 墨田区東向島1丁目24−1 父の事業の失敗で小学校を中退して転々と職を変えて朝から晩まで働き通しだった そのころの川柳に 『貧しさも あまりの果てに 笑ひ合ひ』 がある 大正6年花街で知り合った赤沢やすの寺島村のこのあたりの家で同棲を始めた 本格的作家活動は30歳で新聞に連載した親鸞記に始まる 右端 正岡子規仮寓の地 台東区根岸2-5-11 近代日本代表す歌人子規はこの向島辺りの景色を好み特に墨堤の自然が余程気に入り大学予備門の学生時代に長命寺桜もちの「山本や」の2階に数カ月だけ仮住まいし自ら月櫻香と号して 『花の香を 若葉にこめて かぐはしき 桜の餅 家つとにせよ』の歌を詠んでいる 明治28年日本新聞の記者として日清戦争に従軍するときも『から山の 風すきふなり 古さとの 墨田の櫻 今か散るらん』と墨田川の櫻を偲んで読んでいる 『向じま 花さくころに 来る人の ひまなく物を 思ひける哉』  当時も今も桜の花は墨田川の名所だった様です  
 
 墨田区指定登録文化財 墨堤常夜灯  昔の竹屋の渡しの跡地で照明が発達していない当時の重要な役割であり墨田川の良き風情をなして向島の恰好のシンボルだった 正式には石造墨堤永代常夜灯 正岡子規仮寓の地からすぐ近い  中 桜橋からの墨田川 墨田川公園の両岸を結ぶ歩行者専用のX字型の橋   橋の中央にはモニュメントが2基あります 
   
 左端 竹屋の渡しの碑 言問橋ができるまで浅草側の山谷堀から対岸の向島までの渡しで花見客で賑わった  左中 今戸橋欄干 墨田公園が未だ山谷堀と言う堤だたころの掛けられていた橋の遺構 大正15年に竣工した 遊郭吉原への玄関口として賑わったそうだ  右中 紅梅とスカイツリー(2月4日)  右端 平成中村座発祥の地 歌舞伎役者18世中村勘三郎(当時5代目中村勘九郎)がここ墨田公園に江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場を設営して『平成中村座』と名付けて平成12年11月に歌舞伎『墨田川続梯法界坊』を上演したのに始まる 会場はその都度変更しながら各地で行われてる 平成26年にはNYで公演 台東区側の墨田公園
    
 左端 花の歌碑 台東区浅草7丁目 隅墨田公園内 東京芸大教授武島羽衣作詩 助教授滝廉太郎作曲の御存じ『春のうら~ら~の墨田川~』で羽衣自筆の作詞を彫りこんで昭和31年に建てられた 滝は花の作曲完成後明治36年に24歳の若さで亡くなったが羽衣は昭和42年94歳まで生存した 左中 東京大空襲慰霊碑 昭和20年3月10日の東京大空襲で台東区・墨田区の下町住民はお互い相手の地区逃れようとこの言問橋の上で大混乱となり降り注ぐ焼夷弾の猛火ため10万もの人々が焼死し墨田川は死体の山となった 碑には『あゝ東京大空襲 朋よやすらかに』とある 碑の右下には当時の欄干修理で出た石を記念石として置かれてる 右中・右端 言問橋のプレートのはまった欄干の石には空襲当時の猛火に包まれてできた黒い焦げ跡が生々しく残っている 今でも千羽鶴が飾られお参りする人が絶えません 
 
左 言問橋から上流の桜橋を見る              右 墨田川に架かる言問橋 
   
 左端 水戸徳川邸旧邸跡の碑 明治天皇行幸所の碑  墨田区向島1-3 墨田公園内  左中 藤田東湖『天地正大気』の漢詩碑 尊王攘夷論者の水戸藩士藤田東湖の『和文天祥正気歌』の刻まれた漢詩碑 弘化2年(1845)11月はここにあった水戸徳川家下屋敷に幽閉されていた時に作詩したもので後に水戸尊王攘夷派のバイブルとなった詩 とても細かくて読めません 右中 勝安芳(海舟)像 水戸藩邸隣 墨田区役所近く 首都高速6号向島線下  文政6年現在の両国4丁目で生まれ明治32年逝去 通称麟太郎 名は義邦 後に安房 さらに安芳 西郷隆盛の会談により江戸城無血開城によりを戦禍より守り東京発展の基となった 右端 言問橋上の東京スカイツリー 
     左中 山の宿の渡し 台東区花川戸1-1 
墨田公園内 明治40年東京市浅草区全図には墨田川に船路を描いている 『山ノ宿ノ渡、枕橋ノ渡トモ云』 とある 浅草区花川戸河岸と本所区中ノ郷瓦町の間を結ぶ 




花(2番)
作詩 武島羽衣・作曲 滝廉太郎
見ずやあけぼの 露浴びて
われにもの言う 桜木を
見ずや夕ぐれ 手をのべて
われさしまねく 青柳を