墨  田  川 
千住大橋~白髭橋
むかし思ふ 心ありてぞ ながめつる 墨田河原の ありあけの月
         山家集 西行法師
すみだ川 今も流れは ありながら また都鳥 あとだにもなし                教長集 藤原教長
思ふ人 ありやと問へば 都鳥 ききも知られぬ 音をのみぞなし         続古今和歌集 道因法師
限りなく とおく成りゆく 都かな すみだ河原の わたりしてけり          新後撰和歌集 御嵯峨天皇
このさとは すみだ河原も ほどどほし いかなる鳥に 都とはまし      続古今和歌集 中務卿親王
心あらば 墨田河原の 渡守 しばし思へど 千鳥鳴くなり            家自千鳥 後徳大寺左大臣
    
上左  南千住駅前の芭蕉像 上右 南千住駅前にある豊国山回向院にある江戸・明治の悪役4人の墓碑 千住は芭蕉の奥の細道の出発地と共に江戸の二大刑場の一つ小塚原刑場の地だった  江戸時代後期に大名屋敷を専門に荒らした有名な窃盗犯『鼠小僧次郎吉』(左端) 通称直侍と呼ばれた江戸後期の小悪党で河内山宗俊と共に悪事を働いた『片岡直次郎』(左中) 明治初期の稀代の悪婦として知られ最初の夫を毒殺後 各地を放浪しながら悪事を重ねた『高橋お伝』(右中) 江戸時代の侠客で喧嘩で深手を負った自分の片腕が見苦しいと子分に鋸で切り落とさせた伝説の持ち主『腕の喜三郎』(右端) こういった一癖も二癖もある罪人が全て小塚原刑場で処刑され回向院に葬られたのです なお鼠小僧次郎吉の本来の墓は墨田区の回向院でここには義賊に恩義を受けた人々が建てた墓碑  芭蕉と悪党のギャップが面白い千住から歌枕墨田川の出発としたい
  
上左から 史蹟小塚原回向院   橋本佐内(景岳)墓碑 福井藩士 開明派志士 碑文には『機械芸術は彼にあり 神器忠孝は我にあり』と碑文にある 井伊大老による安政の大獄で逮捕 安政6年死罪  吉田松陰21回猛士碑 長州藩士 思想家 安政の大獄で死罪 吉田松陰の諱は矩方(のりかた)で通称は寅次郎だが『松陰(しょういん)』と『二十一回猛士(にじゅういっかいもうし)』の号 自分の生涯に『二十一回』の『猛』を発する行為をするというわけである すでに上記の三つの罪(東北脱藩旅行・無資格で藩主に上書・下田密航)を犯したがまだ十八回も残っている 今後大八洲(日本)のために身を挺して尽くす勇気ある行動=(松陰が自称)を起そうという決意の表明である 頼三樹三郎鴨崖墓記念碑 鴨崖は彼の号 儒学者 尊王攘夷派志士歴史家 思想家 頼山陽(尊王攘夷思想に影響を与えた日本外史の著者)の三男 安政の大獄で小伝馬町獄舎で斬首 当山埋葬 後日世田谷区松陰神社に改葬
 
上左端 手前右はプロレスの神様カールゴッチの墓  レスリングのベルギー代表としてロンドンオリンピックに出場しているカール・ゴッチ氏 プロレスデビューは1950年であの力道山とも試合をした日本のプロレス創生期のレジェンドレスラー 彼はアメリカでは成功を収めておらず評価も決して高くはない 尊敬されているのは日本でアントニオ猪木を始めとする多くのプロレスラーが卓越した技術を持つゴッチ氏に心酔し過酷なトレーニングに励んだ碑には『決して嘘をつくな 決してごまかすな 決して放棄するな 技術と精神は常に一緒だ』とある アントニオ猪木等により建立 後左は相馬大作供養碑 本名下斗米秀之進 南部藩士 参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽藩主・津軽寧親を襲った暗殺未遂事件 仲間の密告により失敗 小塚原で獄門の刑 左中 2,26事件の首謀者磯貝浅一 妻登美子之墓 陸軍軍人 昭和11年7月軍法会議により銃殺刑 長州同郷の士として松陰の傍での埋葬を遺言した 右中 荒川区歴史史蹟としてここ他に凡そ50基程の墓碑や供養碑がある 右端 観臓記念碑 杉田玄白や前田良沢による刑死者の腑分け見学により解体新書刊行という業績を顕彰するためのレリーフ 杉田玄白の蘭学事始のなかでターヘルアナトミアを解体新書と訳した 
   
左2つ 荒川区指定有形文化財 南無妙法蓮華経の題目がきざまれた題目塔(元禄11年2月) 慶応三(丁卯)歳 十月八日(1867)と小塚原の首切り地蔵 延命寺 荒川区南千住2-34-5  小塚原の刑場は、間口60間(108m)、奥行30間余(54m)で明治のはじめに刑場が廃止されるまでに磔・斬罪・獄門などの刑が執行された  首切り地蔵はこの刑死者の菩提をとむらうため寛保元年(1741)に造立されたもの 日光街道沿いにあり多くの旅人が手を合わせた所  右2つ 延命寺を少しあるくと樋口一葉記念館がある 記念館前の碑文には彼女の旧友歌人佐佐木信綱博士の作並びに書による二首が『一葉女史たけくらべ記念碑』の文字を挟んで彫られている 『紫の 古りし光に たぐつべし 君ここに 住みてそめし 筆のあや』『そのかみの 美登利真如らも この国に 来あぶらむか 月しろき夜を』とある 右端が樋口一葉旧居跡の碑 一葉は明治20年7月26日本郷菊坂町よりここ下谷龍泉寺町368番地移り住みこの界隈を背景にして不朽の名作『たけくらべ』『わかれ道』の題材を得た 『鶉なく 声もきこえて 花すすき まねく野末の 夕べさびしも』の歌があった 台東区竜泉3丁目-15-3
   
左端 素戔嗚神社 荒川区南千住6丁目60?1  左中 模擬墨田川と大橋と首途での碑 文政3年(1820)10月12日の芭蕉忌に際し俳聖「芭蕉」を偲び江戸随一の儒学者で書家としても高名な亀田鵬斎が銘文を文人画壇の重鎮である谷文晁の弟子で大川(現:墨田川)の対岸関屋在住の建部巣兆が座像を手がけるなど千住宿に集う文人達により建てられました  右中 首途の碑 千寿といふ所より船をあがれば 前途三千里のおもひ胸にふさがりて 幻のちまたに離別の なみだをそそぐ 『行く春や 鳥啼き魚の 目は泪』 はせを翁 亡友巣兆子翁の小影をうつし また われをして翁の句を記せしむ 鵬斎老人書 と彫られている 以上神社境内  右端 素戔嗚神社前の国道4号(旧日光街道)からみる千住大橋 
 
奥の細道 矢立初めの地 千住大橋公園  足立区千住橋戸町31  墨田川に掛かる千住大橋と旧日光街道 松尾芭蕉は1689年(元禄2)年3月に弟子の曾良を伴って深川(江東区)から船で遡上して千住(足立区)に降り立ち陸奥へと旅立ちました 又この大橋の下の墨田川テラスには堤ののり面に出発の絵や説明があるが工事中で下りられなかった(下)  
   
左端 史蹟 おくのほそ道矢立初の碑 千住大橋公園 『千寿と云ふ所にて船をあがれば前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに離別の泪をそゝぐ  行春や 鳥啼き魚の 目は泪  是を矢立の初めとして行く道なをすゝまず人々は途中に立ちならびて後かげのみゆる迄はと見送るなるべし』と奥の細道出だしの一節が彫られてる  中2つ 大橋の下墨田川照らすに描かれてる 工事中につき下に降りられなかったのが残念  右端 千住大橋を渡り足立区に入った旧日光街道(奥州街道) 芭蕉・曾良はこの道から前途3千里の旅に出た  
   
上左 大橋の下 千住大橋際御上がりの場 とある 芭蕉の上陸地点ということでしょう   上右 墨田川千住大橋から深川方面を見る 左側足立区 右側荒川区 
   
  上左3つ 千住宿奥の細道プチテラス 足立中央卸売市場隣 足立区千住河原町23-1  街薄暑 奥の細道 ここよりす 菖蒲園(元やったば青果問屋主人為成善太郎) 右端 日光街道千住宿入口から数百メートルはやっちゃ場と呼ばれた問屋街で賑わた所で家ごとに今でも往時の屋号の看板が多数下がっている やっちゃ場の由来は競り市の掛け声が『やっちゃやっちゃ』と聞こえることからやっちゃ場とよばれるようになった やっちゃという掛け声は事がうまく運んだ時 ほめそやすとき 驚いた時に発する声でその始まりは戦国時代から安土桃山時代といわれる
    
 右端 芭蕉句碑 鮎の子の 白魚送る 別哉 この句は『行く春や・・・』の句の前に創作されたが奥の細道の千住の文体には合わないと不採用になった句 千住宿歴史プチテラス前
   
 左端 都鳥歌碑 石浜神社境内 荒川区南千住三丁目 都鳥歌碑正面には、平安初期の名門貴族漂泊の歌人業平(なりひら)が京の都を捨てはるばる大川のほとりに流れ来て川面の都鳥を目にした時の望郷の思いを綴ったという『伊勢物語 東下り』の一節が記されています 文化2年(1805)建立 『武蔵の国と下つ総の国との中にいと大きなる河あり それを墨田河といふ その河のほとりにむれゐて思ひやればかぎりなく遠くも来にけるかなと わびあへるに 渡守(わたしもり、『はや舟に乗れ 日も暮れぬ』と言ふに乗りて渡らむとするに みな人ものわびしくて京に思ふ人なきにしもあらず さるおりしも白き鳥のはし(嘴)とあし(脚)と赤き鴫(しぎ)の大きさなる水の上に遊びつつ魚(いを)を食ふ 京には見えぬ鳥なればみな人見知らず 渡守に問ひければ『これなむ都鳥』と言ふを聞きて 名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと と詠めりければ舟こぞりて泣きにけり』と彫られているが摩耗が激しく読みきれない 言問橋はこの歌に依っている   
 上右2つ 国指定史跡平賀源内の墓 台東区橋場2-22-2
 エレキテルや草木学・その他発明家で有名だが安政7年(1779)殺傷事件を起こし小伝馬町の牢内で獄死した  杉田玄白は『ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するやと嘆いた 

左 橋場の渡し  白髭橋から上流千住大橋をみ見る
 
左 荒川区と右 首都高速6号向島線 墨田区とを結ぶ160mほどの渡しだが大正3年に初めて木橋が出来るまでは橋場の渡し(白髭の渡し)とよばれていた 江戸名所図会には古くは墨田川の渡しとあり伊勢物語の在原の業平が渡河した渡し とある 平安時代末期源頼朝が平家打倒の旗揚げをした時には頼朝が数千の船を集めて船橋を架けたと記録があり墨田川最初の橋ともいわれている