西宮(西宮神社
西宮と言へば広田社・南宮社・西宮えびす社の三社をさす この三社を含めて西宮と呼ぶ 広田社歌合を西宮歌合と呼ぶ所以だ 文献上に現れてくる最初の西宮の所見は
柴小舟 まほにかきなせ ゆふしでて にしの宮人 かざまさりつつ         散木奇歌集 源俊頼
安元3(1178)年神祇伯が神拜するために西宮に下向したという記述がある(顕広王記) 他にも『下向西宮』という記述は度々あるようだ つまり京の都に居る神祇伯家にとってこの地方は重要な所領地でありそこに鎮座する広田社・南宮・えびす社の三社を厚く崇敬していたから何かにつけて都から見て『西の方に鎮まる宮』あるいは『にしの方向にあるお宮』と強く意識していた それが後にえびす社の隆盛に伴い門前町が形成され町名として西宮と名づけられ西宮と言へばこの三社の地をさしついに地名として西宮が成立し今日の発展につながた(西宮神社 ㈱学生社)とある つまり西宮の地名は京都から見て西の方角に在(いま)す著明な神社があったから付いた名前なのである
西の海に 風こころせよ にしのみや 吾妻にのみや ゑびす三郎               拾玉集   慈鎮
 
上左 国重要文化財表大門(赤門) 1604年豊臣秀頼により寄進され全体が赤く丹塗りされているので「赤門」といわれている 2本の円柱を本柱 4本の角柱を控柱とする四脚門でありそれぞれの柱を貫材および虹梁でつなぐ簡素な構造であるが優雅さをもち細部には繰型や雲紋で飾ってある 慶長年間の製作と考えられる  上右 西宮神社拝殿は 福の神として崇敬されている えびす様をおまつりする神社総本社です 国宝本殿(下右)は江戸時代寛文3年(1663)に四代将軍家綱の寄進による 本殿は昭和二十年の空襲により烏有に帰してしまいましたが昭和三十六年桧皮葺から銅板葺に変わった他はほぼ元通りに復興され今は銅屋根も古色を帯び えびすの杜を背景に佇んでいる 向かって右からが第一殿で蛭児大神を祀り 中央が第二殿天照大御神及び明治初年に大国主大神を配祀 左が第三殿で須佐之男大神を奉斎しています(神社栞)
名にしおへば 頼みそかくる 西宮 そなたに吾を 導けやとて           広田社歌合   阿闍梨性阿

国宝 西宮神社本殿  三連春日造(さんれんかすがづくり)と云う珍しい構造 後ろの森が県指定天然記念物のえびすの森 
上右 国重要文化財 大練塀  神社境内の東側から南側にかけて総延長247m の長大な築地塀版築技法を用いてつきあげた築地を 62基連ねて練塀本体としている 約600年前室町時代に造られたものと推定され現存最古の築地塀である 京都33間堂 名古屋熱田神宮と共に日本3大練塀の一つで規模の大きさ その堅牢さにおいて本邦第一の大練塀だ 日本に約3500社あるえびす神社の総本社(名称:「えびす宮総本社」)である 地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれる
西にのみや はこふ心の しるしをは そなたにいます 神に祈らむ           広田社歌合    資隆
思へだに 神にもあらぬ 
 ゑびすだに 知るなるものを
      物の哀れは
  
広田社歌合 源 頼政

左 芭蕉句碑 神社境内
扇にて 酒くむかげや 
        ちる桜

    芭蕉公300回忌記念 
    貞享5年春 笈の小文

下右 常夜灯型の道標 
    表大門外東南の角
寛政11年(1766)の年号が掘られ 『西宮大神宮 左 大阪・京都 道 右 兵庫はり萬 道』とある
今日まで はかくて暮らしつ
   行末を 恵みひろたの
        神に任せん

            藤原頼実
名にしおはば 西てふ神を 
  頼みおかむ そなたを終に 
        願ふ身なれば

   広田社歌合 俊恵法師
世を救ふ ゑびすの神の 
  誓いには もらさじものを 
      数ならぬ身も
   
      広田社歌合  安心
正月10日午前4時から10日えびす大祭が執り行われ御前6時ごろ終わると同時に門が開かれ氏子たちが一斉に家から神社まで駆け抜ける風習が今も行われ福男選びのルーツとなった


    
   左端 蛭児大神御興屋伝説地碑
 この蛭児碑は西宮神社の東門正面から旧国道を300mほど東に歩いたところにある えびすさんの本当の正体は諸説あるが西宮えびすは蛭子神系のえびす神社の総本社と呼ばれていて『古事記』に書かれている『国産み』の際イザナギとイザナミとの間に生まれた最初の神だが不具の子であったために葦の舟で海に流された その「ヒルコ神」が流れ着いたのが西宮の浜である 海の彼方の外の国から来た神だから戎(えびす)神と名付けられた