鳰 鳥 の 里  2
夜を寒み 寝覚めて聞けば 鳰鳥の うらやましくも みなるなるかな    拾遺和歌抄 詠み人知れず
鳰鳥は 氷れる波に 夜がれして 月ばかりすむ 庭の池水           新千載和歌集 善源法師
鳰鳥の 氷の闇に とじられて 玉藻のやどを かれやしぬらん            拾遺和歌集  曽禰好忠
矢切の渡し 松戸市下矢切1257  ここ矢切は江戸川に40ほどあった渡しで唯一残された渡し  下の碑は矢切の江戸川堤防にある この矢切の渡しが世に広まったのは1906年(明治39年)雑誌「ホトトギス」に発表された矢切を舞台に政夫と民子の悲恋の物語を描いた伊藤佐千夫小説『野菊の墓』の一節『僕の家といふは矢切の渡しを東へ渡り小高い岡の上で矢切村と云っている所』として描かれたことによるが 更に細川たかしの演歌により爆発的観光名所となる  
 
 下中左 川の一里塚碑 江戸川河口より16.7km  下中右 残したい日本の音風景100選の碑 日常生活の中で耳を澄ませば聞こえてくる様々な音についての再発見を促す為とある  下右端 太田道灌水五訓の碑 1、自ら活動して他を動かしむるは水なり 2、常に自己の進路を求めて止まざるは水なり3.障害に逢い激しく且つ努力を百倍し得るは水なり 4、自ら勧奨して他の汚水を洗い清濁併せて容るるの量あるは水なり 5、深々として大洋を満たし発しては蒸気となり雲となり雪に変し霰と化し 擬しては玲瓏たる鏡となる而して其の性を失はざるは水なり  さすが道灌! 治山治水だ 水を治める者は国を治める 江戸城建設のみにあらず
 上左端 野菊の墓文学碑 西連寺境内裏 松戸市下矢切261 『僕の家といふは矢切の渡しを東にわたり小高い岡の上でやはり矢切村と云っている所で崖の上になっているので・・・・』 西連寺は国府台合戦のあった高台にある 上中左 西連寺から江戸川矢切の渡しまでの途中『野菊のこみち』の傍らに碑があり矢切の渡しと小菊の彫り物があった 上中右 野菊のような人の碑  同じく野菊のこみちの傍らにある正夫と民子の彫り物と小説の一節の碑 『・・・まァ奇麗な野菊 政夫さん私に半分おくれったら 私ほんとうに野菊が好き』 『僕はもとから野菊が大好き 民さんも野菊が好き・・・』 『私はなんでも野菊の生まれかわりよ 野菊の花を見ると身震いの出るほど好もしいの・・・ どうしてこんなんかと自分でも思ふ位』 『民さんはそんなに野菊が好き・・・・道理でどうやら民さんは野菊のような人だ 民子は分けてやった半分の野菊を胸に押し当ててうれしがった・・・・』 と彫られている 上右端 野菊のこみちの途中にある坂川の小川に架かる矢切橋  義理人情と世間体の狭間に生きる人間には切っても切れない渡しなのです  昭和30年木下恵介監督で野菊のごとく君なりき と映画化
    左端  野菊という花はない 山野に咲く数種類の菊の総称である 関東地方では一般に カントウヨメナ・ノコンギク・ユウガギク等の田圃の畔に咲く多年草との事とあった
  西連寺文学碑のある高台の国府台からの江戸川矢切の渡し方面を見下ろす この高台は関東北条氏康軍と南総支配していた里見軍が2度に渡り戦った国府台合戦の古戦場跡である


ここから以下は少し鳰鳥の里を離れ伊藤佐千夫の故郷千葉県東部の山武市を尋ねてみた やはり野菊の墓一色でした 
 伊藤佐千夫の故郷 山武市九十九里浜   上左 九十九里の夜明け   上中 九十九里浜   上左 伊藤佐千夫歌碑   山武市須賀本須賀海岸3824-24
天地の 四方の寄合を 垣にする 九十九里浜に 玉拾ひ居り
砂原と 空と寄り合ふ 九十九里の 磯行く人ら 蟻のごとしも
 
上左端 伊藤佐千夫歌碑(右)と略歴碑(左)  総武本線成東駅前 久々に 家帰り見て 故さとの 今見る目には 岡も何も良し  上中右 千葉県史蹟伊藤佐千夫生家 山武市殿台393  上左中 生家前にある歌碑 牛飼いが 歌読むときに 世の中の あたらしき歌 おほいに起こる 彼は上京後一時酪農経営をしている  上右端 伊藤佐千夫記念公園 山武市殿台264  公園には野菊の歌、アララギ派八歌人の歌碑や『野菊の墓』の政夫と民子の像があり小説の一節が彫られている 
 
 上左 野菊の墓 正夫と民子の像 伊藤佐千夫記念公園内  上中・上右 童謡里の秋歌碑 山武市に来て初めて里の秋の作者斉藤信夫が山武市五木田の生まれであることを知りましたので早速歌碑のある所尋ねた 中央が山武市成東2654の成東城跡公園内歌碑  右が彼の生家の近くにある山武市上横地884-1の南郷小学校内にある歌碑