寝 覚 の 床
国指定名勝 県立公園から中央アルプス国定公園に編入された日本五大峡の一つでる 天竜川の浸食により花崗岩の奇岩が露出した所 長野県木曽郡上松町にあり木曽路のランドマークである 寝覚ノ床には浦島伝説がまことしやかに伝わっているのも面白い
鹿の音ぞ 寝覚の床に 聞ゆなる 小野の草臥 露や置くらむ 後拾遺和歌集 藤原経家
ひる顔に ひる寝せふもの 床の山 芭蕉
谷川の 音には藤も 結ばじを 目覚めの床と 誰が名つくらん 近衛摂政家照公
浦嶋の よはいをのべよ のりの師は ここに寝覚の 床うつして 綾小路宰相有長
岩の松 ひびきは波に たちはかり 旅の寝覚ノ 床ぞ淋しき 貝原益軒
おべんとうを 食べて洗って 寝覚めの床で 種田山頭火
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寝覚山臨川寺 木曽郡上松町上松1704 尚海のない長野県にもかかわらず境内には浦島堂があり浦島太郎伝説が残っている 数百年の眠りから覚めて玉手箱を開けた昔話からすると寝覚ノ床のネーミングは浦島太郎伝説から生まれたのかもしれない |
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上6点 寝覚ノ床の花崗岩群 人の姿からして水面からの高さが20m以上ありそう花崗岩群 天下の絶景なので尾張藩主や日光例幣使・参勤交代の大名・文人墨客・一般旅人はここで宿泊・小休止をした |
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上2点 福沢桃介記念館 木曽郡南木曽町読書2941-1 福沢桃介と聞いても.あまり聞きなれない人も多いかと思います が彼こそ日本の近代化に必須の.電力開発心血を注いだ日本の電力王なのだ 埼玉県の貧乏農家から慶応大学に学び福沢諭吉から娘の婿になるならアメリカ留学をさせてもいと言われアメリカで経営学を学び帰国後結婚して養子となる その後肺結核で療養中にアメリカで学んだ株で莫大な利益を得た その後その資金で近代化の基礎となる電力に眼をつけ名古屋電燈株式会社を買占め大正3年には社長となった 彼は木曽川にダム建設を計画し大正13年に日本初のダム式発電所大井発電所を完成させその後も木曽川に次々と発電所を完成させ日本の電力王となた人物 だから中山道天竜川沿いの南木曽町に記念館があるのです |
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左 御下賜金紀念日毎年七月二十五日 (記ではなく紀となっている) 中 御下賜金記念の碑 宮内庁から毎年.一万円を村内住民に支払う事情説明板 御下賜金とは明治38年から昭和22年まで皇室から木曽谷住民に与えられたお金のこと 明治政府が強制的に木曽谷一帯を官有林に指定して皇室財産としたため生活の糧を回復するため島崎藤村の兄広助が反対運動を起こしたが山林は戻らずやむを得ず上述の結果となった 右 森林鉄道の機関車 この機関車は南木曽町の国有林で運転されていたもの この森林鉄道の総延長は69kmもあった 昭和2年から昭和42年まで40年にわたり国有林の木曽檜や木材のみならず生活物資を運んだり住民の足として利用され山村地域の生活に密着していた 福沢桃介記念館の隣にある |
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左 中山道妻籠宿 木曽郡南木曽町吾妻 中 旧中山道と中山道碑 右 妻籠宿街並み入口案内板 |
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中 山 道 妻 籠 宿 |
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右端 脇本陣奥谷家 |
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妻籠の升形 江戸時代に制定された宿場町は一種の城塞の役割を持たされ出入り口には必ず升形が設けられた 街道を二度直角に曲げ外敵が侵入しにくいようにした |
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以上妻籠宿 国重要伝統的建造物保存地区 妻籠宿保存地区 完璧に保存された宿場町妻籠は1601年徳川家康が宿場町制度を制定したとき正式に宿場町として指定された 江戸から京都まで530kmの中山道69宿のうち42番目の宿でした 中山道は国指定史跡である |
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中 妻籠宿 雨の升形 |
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右上4点 雨の妻籠宿 雨もまた風情があります これは20年前の画像 中 馬籠峠山頂碑 妻籠宿から馬籠宿の間にある標高791mの馬籠峠 右 正岡子規の句が彫られている馬籠峠の碑 白雲や 青葉若葉の 三十里 発見できなかったが次の句も馬籠にはある 桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな |
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上3点 峠の集落跡にある水車塚 妻籠から馬籠への馬籠峠を超えると峠の集落があったという説明版があった 美濃から信州への牛方を生業としていたが安政2年中津川の問屋と牛方にストライキがあった事が島崎藤村夜明け前に記述があると書いてある 又説明版には明治37年7月に起きた水害のためここにあった家屋と一家4人が一瞬にして亡くなった 難を逃れた家族の一人蜂谷義一が島崎藤村と親交があったので後年藤村に依頼して水車塚の碑の建立を依頼したある(右端)島崎藤村の水車塚碑 山家にありて水煮埋もれたる蜂谷の家族4人の記念に島崎藤村記す 明治37年(1933)7月水害のためここにあった家屋は一瞬にして流され一家4人が惨死した 難を逃れた家族の一人蜂谷儀一はたまたま藤村と親交があったことから後年になって供養のため藤村に依頼して建立したのがこの水車塚である |
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右端 十辺舎一九狂歌碑(ネットより拝借) 古くから峠の名物であった粟のこわ飯を文政2年戯作者十辺舎一九が木曽路を旅して馬籠の宿で『木曽街道膝栗毛』の中で 渋皮の むけし女は 見えねども 粟のこわめし ここの名物 の狂歌を詠んだ とある 右2点 峠の集落跡にある中仙道碑 岐阜県中津川市馬籠 |
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上4点 中仙道 木曽路 馬籠宿場 岐阜県中津川市馬籠 島崎藤村の生まれ故郷で大作 夜明け前の舞台 となった宿場 |
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左 西澤山永昌寺 岐阜県中津川市馬籠5358 中 島崎一家と島崎藤村の墓地 永昌寺境内 右 母を葬る詩碑 若菜集の一節 きみがはかばに きぎくあり きみがはかばに さかきあり くさばにつゆは しげくして おもからずやは そのむかし いつかねむりを さめいでて いつかへりこん わがははよ |
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左 日本遺産島崎藤村生家 馬籠本陣跡 博物館相当島崎藤村記念館 中津川市4256-1 施設内に各種居宅跡や展示物あり 右 馬籠脇本陣跡資料館 屋号は八幡屋の蜂谷家の資料館 馬籠宿の年寄役であった 中津川市馬籠4253-1 手前の山口誓子の句碑 街道の 坂に熟柿 灯を点す |
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中仙道馬籠宿 江戸 八十五里 京 五十三里 |
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左2点 雨の馬籠宿 20年前の画像 右端 是より北木曽路の碑 |
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左 馬籠宿 ネットより拝借 右 藤村句碑 桃の花 おのずから 少女にふさわしい 岐阜県中津川市落合 |
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