難波(浪速)
摂津名所図会巻之一には 『浪速國海浜数郡の総称なり 今東生・西成の二郡にわたる 大阪をもって難波津といふ 難波江・難波浦・浪花潟・なにわの海等古詠多し』 とある 又以下ウイキペデイアによると摂津の国とは現大阪府北西部と兵庫県南東部で難波津や武庫の津など良港があったために古事記・日本書紀には津の国 とある
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今を春べと 咲くやこの花    古今和歌集  王仁(わに 朝鮮渡来人)
応神天皇崩御後 兎道稚郎子皇子と大鷦鷯尊とが互いに譲り合い3年間空白の後に天皇の座に大鷦鷯尊が難波高津の宮にて16代仁徳天皇として即位する際の治世の繁栄を願って詠まれたもの 古今和歌集の仮名序に紀貫之は陸奥福島県の安積山の歌と共に『手習う人のはじめにもしける』と述べ書道と和歌を習う人のお手本とした 平安時代は『難波津の歌』と言えば誰もが知ってる歌の代名詞だったという
なには津に さくや昔の 梅の花 今も春なる 浦風ぞ吹く       新勅撰和歌集 後京極摂政太政大臣
心あらん 人に見せばや 津の国の 難波わたりの 春のけしきを         後拾遺和歌集 能因法師
参考 安積山の歌  安積山 影さへ見ゆる 山の井の あさき心を われ思はなくに           万葉集 巻16-3807  
アベノハルカス300mからの眺望 上左 北部方面(京都) 上右 南西方面(兵庫・神戸)  往時はこの付近は総て難波の津・浪花の江・浪花潟・なにわの海でした
     
上左 国指定重要文化財 大日本仏法最初四天王寺石鳥居 鎌倉時代の永仁2年(1294)の建立で寺院では最古の建造物  古来西方浄土の東門に当たると信じられ現在も真西に陽が没する彼岸の中日には夕陽を拝して極楽浄土を観想する修法『日想観』が行われている 大石鳥居は極楽浄土と現世との結界 上中 西大門 通称極楽門 昭和37年松下幸之助氏の寄贈による再建だ 当時ここと石鳥居の間の夕陽が絶景で『沈む夕日を眺めながら夕陽を拝めば極楽浄土に行ける』という日想観の聖地となる 西大門は極楽への入り口 この辺り一帯の汎称町名は夕陽丘町と呼ばれる所以である 歌人藤原家隆が此の地に夕陽庵の庵を建て終の棲家とした 当時ここは大阪湾に沈む夕日を眺める絶好の地だった 
ちぎりあれば 難波の里に やどり来て 波の入日を おがみつるかも         藤原家隆  
  左上 五重塔 四天王寺のシンボル 593年の創建以来8度も焼失していて現在のは昭和34年建築の鉄筋コンクリートで39,2mの高さ
上左 奥が四天王寺六時礼賛堂と手前が石舞台共に重要文化財 前者は1623年建立 昼夜6回礼賛が行われることからこの名がある 納骨や供養などが行われる中心道場で大法要も行われる寺院実務の重要な御堂 後者の石舞台は住吉大社の石舞台・厳島神社の平舞台と共に日本3大舞台の一つで毎年4月22日の聖徳太子の命日の法要(聖霊会 重要無形文化財)には雅楽が終日奉納される 上右 聖徳太子が建立した四天王寺の中心伽藍の金堂 聖徳太子の本地仏の久世観世音菩薩を祀る   大阪市天王寺区天王寺1丁目
日本最初の官寺四天王寺は593年 今から1400年前の推古天皇元年の建立 日本書紀の伝える所によれば排仏派物部氏と崇仏派蘇我氏との日本最初の宗教戦争で蘇我氏側の聖徳太子が形勢の不利を打開するため自ら四天王像を彫り勝利を祈願するため像を安置する寺院を建立し勝利の暁にはこの世のすべての人々を救済するとの請願し建立した 日本最初の本格的仏教寺院である 
     
上左 北鐘堂 北の引導鐘・鐘突き堂と呼ばれ正式には黄鐘堂という この鐘の音は遠く極楽まで届くといわれ春秋の彼岸には鐘の音が絶えない 吉田兼好はその徒然草の中で『六時堂前の鐘の音は黄鐘調べと一致する・・・ 黄鐘調は祇園精舎の無常院の音云々・・・』と書いている 別に南鐘堂もあり正式には鯨鐘堂と呼ばれこちらの調べは盤渉調という 上中 義経よろい掛松 上右 弘法大師修行像   下の歌は大石鳥居の前の立札にあった和歌
阿弥陀仏 心は西に 空せみの もぬけ果てたる 声ぞすずしき
  
法然  難波潟 入にし日を ながむれば よしあしともに 南無阿弥陀仏  後鳥羽法皇
海に入る 難波の海の 夕日こそ 西にさしける 光なりける   
為家   世を照らす 誓いの海の 入日こそ 難波のみつる 寺となりけり  為家
西をおもふ 心ありてぞ 津の国の 難波の辺りは 見るべかりける  
後京極  さはりなく 入る日を見ても 思ふかな これこそ西の 門出なりけり  郁法門院安芸
阿弥陀仏 となふる声を かじにてや 苦しむ海を 越えはなるらむ  
俊頼  ここにして 光をまたむ 極楽に むかふとききし かどに来にけ  赤染衛門
水ぐきの 跡ははかなく 残るとも 忘れずしのぶ 人やなからむ  
紀貫之  水ぐきの あとははかなく 成りにけり 忘れずしのぶ 人やあれども  定家
阿弥陀仏と いふより外は 津の国の 難波のことも あしかりぬべし   
法然上人
 
上 大阪夏の陣真田幸村自刃の地(ネットより拝借) 安居神社境内 大坂市天王寺区逢坂1丁目
定めなき浮世にて候らへば一日先は知らざる事に候   幸村名言
      
 上左 真田幸村戦没の地碑(元和元年五月七日)              上中 安居神社               上左 真田幸村戦死之地跡碑
        
 関東勢百万も候へ 男は一人もいなく候   幸村名言
 
幸村戦死の場所にある松 慶長二十年(1615)五月七日天王寺口の茶臼山に布陣した真田幸村は毛利勝永らとともに徳川幕府軍と大激戦を繰り広げる 一時は幸村や勝永らの獅子奮迅の戦いぶりに幕府軍が大混乱になり徳川家康を窮地に追い込むものの大兵力の幕府軍相手に戦の流れが変わり真田幸村も力尽き安居神社境内の一本松の下で休息しているところを松平忠直隊の武将に討ち取られた 享年49 神社には真田幸村の像と戦死跡の碑とそして真田幸村が休息していたといわれる二代目の一本松さなだ松がある 上右 真田丸跡と推定される所の顕彰碑(天王寺区餌差町 大阪明星学園テニスコート ネットより拝借)
十万石では不忠者にならぬが 一国では不忠者になるとお思いか   幸村名言
 
 一心寺霧降の松  霧降りの松と呼ばれる伝説の松株が残されている 真田幸村に追いつめられた徳川家康が この松から吹き出した霧のおかげで一命をとりとめたと伝える  一心寺は安居神社と国道25号線を挟んだ向かい合わせのお寺(一心寺HP) 
一心寺 大阪市天王寺区逢坂
浄土宗の寺で正式名称は坂松山高岳院一心寺 骨仏の寺として知られている 前代未聞の骨仏が始まったのは明治20年で宗派を問わず納骨を受けている 納められたご遺骨は10年分をひとまとめにして骨佛(遺骨で造られる阿弥陀如来像)を造立いたします 骨佛は核家族化や現在の墓地事情などの環境変化に加え先祖の遺骨を未来永劫大切に供養してる 第1期造立以来130年以上の歴史をもちおよそ200万人にもおよぶ故人が阿弥陀仏の姿になって一心寺の納骨堂・お骨佛堂に鎮座している 
         
 一心寺境内 左から納骨堂この中に御骨仏がある  明治戊辰伏見之役東軍戦死者招魂碑  明治戊辰戦役会津藩士墓地
侘ぬれば いまはたおなじ 難波なる 身をつくしても あはむとぞ思ふ          後撰和歌集  元良親王
      
上左 本多出雲守忠朝の墓(一心寺) 冬の陣酒で失敗した人物で家康に叱責され夏の陣で見返そうと奮戦したが討死 最後の期に『自分の墓に参れば酒が飲めないようにしてやる』と言ったという伝説 酒封じの神として禁酒断酒のお参り多数う 上中・上右 冬の陣は徳川・夏の陣は真田の本陣 茶臼山(一心寺近接) 慶長二十年五月七日(1615年5月7日)、真田の赤備が陣を構える茶臼山の真田幸村隊三千五百徳川方最強の松平忠直率いる越前勢一万五千と激突し真田の赤備えと松平家の家紋のつま黒が大阪夏の陣最大の激戦が茶臼山周辺で繰り広げられた(大阪夏の陣/天王寺口の戦い) 数では劣る真田隊であったが高い戦意と捨身の攻撃で越前勢を突き破り徳川家康の本陣目掛けて一文字に三度の攻撃を仕掛けあとわずかで家康の首に手が届くところまで攻めるも数に優る越前勢が混乱から立ち直り反撃を開始しばらく茶臼山に拠って抵抗を続け真田隊も越前勢の猛攻によって奮戦むなしく壊滅し真田幸村も激戦を戦い抜いて疲弊し茶臼山の北にある安居天神で休息しているところを越前兵により討ち取られる
難波潟  みじかき蘆の  ふしのまも  逢はでこの世を  過ぐしてよとや         新古今和歌集   伊勢
 
上左 和気橋 延暦7年(788)に和気清麻呂が大和川や河内湖の排水と水運のために上町台地をここで開削しようとして失敗した跡地  上右 和気橋と河底池と茶臼山
難波潟 潮干に立ちて 見わたせば 淡路の島に 鶴渡る見ゆ    万葉集巻7-1660
     
上左 史蹟茶臼山の阿底池碑 和気清麻呂が上町台地を開削して大和川を大阪湾に流す治水工事を手掛けたが失敗した名残の場所とか 池に架かっている橋の名が『和氣橋』という意味がわかり茶臼山の古墳説(?)と共に長い歴史のある地  上中 慶沢園から見えるアベノハルカス 慶沢園は大正15年豪商住友家から大阪府え寄贈された純和風林泉式回遊式園の名庭園 上右 府有形文化財 旧黒田藩(福岡藩)蔵屋敷の表門 江戸時代大阪は「天下の台所」といわれ日本の商業・流通・金融の中心地であった 諸国の物産は大阪に集められそこで販売されて再び諸国に運ばれたりまた長崎を通じて諸外国へ輸出された諸藩は現在の中之島周辺となる堂島川、土佐堀川、江戸堀川に沿って蔵屋敷(倉庫兼取引のための藩邸)を設けていた 元禄時代(1688-1705)から蔵屋敷が増え始め天保年間(1830-1844)には124邸に及んだという 明治5年(1916)の廃藩置県の時には135邸あったそうだ 旧黒田藩(福岡藩)蔵屋敷の表門は江戸時代中期の蔵屋敷の遺構をもつ数少ないもののひとつ 
     
 安倍晴明神社(熊野街道沿い) 大阪市阿倍野区阿倍野元町5 安倍晴明は阿倍野の豪族だった父・阿倍保名(あべやすな)と猟師に追われた助けた狐が後に葛の葉と名乗る女性との間に生まれた伝説がある 葛の葉の正体が白狐であることがばれた時に障子に葛の葉が書き残した歌『恋しくば 尋ねきてみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉』はあまりにも有名 安倍晴明神社は晴明没後2年の寛弘4年(1007)の創設とされている 信太の森も有名な歌枕で数多くの歌が残されている 幼名は安倍童子 四天王寺と住吉神社の丁度中間にあり熊野三山の王子(末社)で阿倍野王子と呼ばれた
わが恋いは しのだの森の しのべども 袖の雫に あらわれにけり           御集  後鳥羽院 
つろはで しばししのだの 森をみよ かえりぞもする 葛のうら風            新古今集   赤染衛門 
      
 上左 安倍晴明像     上中 安倍晴明産湯の井戸     上右 葛の葉姫(くづのはひめ 神社HP)有名な安倍晴明神社は京都堀河町一条戻り橋にあり墓地は京都嵐山
津の国の 難波の春は 夢なれや 葦の枯葉に 風わたるなり         新古今和歌集 西行法師
難波江の 葦のかりねの 一夜ゆゑ みをつくしてや 恋わたるべき        千載和歌集   皇嘉門院別当