高  麗

巨麻尓思吉  比毛登伎佐氣弖  奴流我倍尓  安杼世呂登可母  安夜尓可奈之伎

高麗錦 紐解き放(さ)けて 寝(ぬ)るが上(え)に 何(あ)ど為(せ)ろとかも あやに愛(かな)しき   万葉集巻14-3465
高麗錦の下着の紐を解き放ち二人が結ばれている上にさらにどうすればよいのかしらこの女の事が無性にいとしくてたまらない 本当に可愛いおまえよ  

赤裸々ななんとも直情的で正直な男の歌でしょう 古代の日本にはこのような歌を公な書物に堂々と載せられると言うことは未だ検閲などのない封建制社会の成立以前の自由奔放な時代だったのでしょう この歌万葉集では未勘国(所在地不明)の歌に入れられているようにどの地方で詠われた歌か不明だが高麗錦と高麗郡を結び付けてここに建てられたのでしょう 高麗錦は高句麗式の高級な錦 高麗郡は高句麗から東国一円に渡来していた人々を居住させるため霊亀2(716)年に武蔵国に建郡されたところです
下 高麗神社 神社の由来は説明板を要約すると朝鮮半島北部の高句麗が668年隣国唐・百済連合軍医に滅ばされた その時多数の貴族・僧侶が日本に逃れ移住した 霊亀2年((716)その内の1799人がここ武蔵の国に移され新しく高麗郡が設置された その時高麗王若光が郡司に任命され郡の発展尽くした この若光を祀るのが高麗神社 下右 続日本紀の碑 『続日本紀第七霊亀二年五月辛卯条の記述 乙未 従五位下高麗若光賜王姓 続日本紀巻三 大宝三年四月乙未条』 と歴史的事実が彫られてる 尚下左端の標柱は邪気の侵入を防ぐ魔除けでニダ将軍票と呼ぶ
 
 上左端 高麗神社扁額 上中左 高麗山聖天院勝楽寺  日高市新堀990-1 高麗王若光 侍念僧勝楽や弟子聖雲などの一族の菩提寺で奈良時代僧勝楽により開基 上中右 高句麗若光王陵 上右端 若光王廟  高句麗王族と高句麗国の人を祖先とする渡来系氏族である 703年(大宝3年)に高句麗の王族と推測される高麗若光きしのカバネを与えられる 武蔵国高麗郡(埼玉県日高市)の高麗神社の宮司は若光の子孫で現在の宮司は若光から数えて60代目とされる 
 上左 高麗錦 上記の歌の主人公が彼女との閨事を詠んだ高麗錦とはこの衣装のことでしょうか 上中 天皇皇后両陛下行幸記念碑 上右 浩宮徳仁親王殿下御見学祈念
上左 光栄録 高麗神社参拝の日朝皇族関係者氏名  上右 高円宮紀久子殿下御手植  その後左から駐日大観民国特命全権大使 申 ?秀 駐日大観民国特命全権大使羅 鐘一 大観民国京畿道知事南 景弼 他に衆議院議員鳩山一郎 内務大臣若槻禮次郎 駐日大観民国特命全権大使李俊撥 東京韓国学園理事長崔淳悦 李王垠殿下 李王妃方子女王殿下等の名が見える  日本の皇族方が参拝されるのは桓武天皇の母高野新笠は父が百済系渡来人和氏で史姓の和乙継 母は土師朝臣真姝 父方の和氏は『続日本紀』では百済武寧王の子孫とされているせいかも知れない 桓武天皇の即位後皇太夫人となり薨去後に諡号は天高知日之子姫尊   ウイキペディアより
上左 高麗川と日和田山  日高市で一番高い山306m こから見ると巾着がはっきり見えるとのこと 上右 巾着田 高麗川が巾着袋になっている 日高市高麗本郷巾着田 
 上左 万葉集巻14-3465の万葉歌碑 公園内     上中 巾着田曼珠沙華公園入り口     上右 500万本日本一の曼珠沙華の群生公園