木 曽 の 梯 

長野県木曽郡上松町の中山道(旧国道19号線).の下にある橋跡で歌枕として名高く日本百名橋の番外の一つ有名 木曽川沿いには通行困難な断崖が幾つかありそのために断崖に差し込んだ丸太んお上に板を並べて通り道とした梯道(さんどう)を設けた 木曾の梯 太田の渡し 碓氷峠がなけりゃよい とも歌われたどれも木曽川の難所だった所 そのうちの波計(はばかり)梯は木曽福島宿と上松宿の間にありかつては
日本三奇橋の一つに数えられ

波とみゆる 雪を分けてぞ こぎ渡る 木曽の梯 底も見えねば
   駒なずむ 木曽のかけ路の 呼子鳥 誰ともわかぬ こゑきこゆなり
   さまざまに 木曽のかけ路を つたひ入りて 奥を知りつつ 帰る山人
 
ひときれは 都をすてて 出づれども めぐりはてなき 木曽の梯
     木曽人は 海のいかりを しづめかねて 死出の山にも 入りにけるかな
以上山家集 西行法師
わけくらす 木曾の梯 たえだえに 行水深き 峰の白雪            藤原良経
なかなかに 言ひもはなたで 信濃なる 木曽路の橋の かけたるやなそ       源頼光

  桟や  いのちをからむ  蔦かづら        松尾芭蕉

桟や 水へととかず 五月雨 
かけはしや.あぶない処に まつつつじ
むかしたれ 雲のゆききの あとつけて 渡しそめくん 木曽の桟
以上 正岡子規

梯を 踏めば旅の心の ゆるむとも       種田山頭火

 左 日本百名城 国指定史跡 高遠城祉公園  伊那市高遠町東高遠810-1       中 城址公園案内図     右端 天下第一の桜の碑 日本三大桜の名所
 
 上2点 高遠城公園の桜 長野県公式観光サイトより拝借 高遠城は武田信玄の五男仁科五郎信盛織田信長の長男信忠と戦い壮絶な死を遂げた城 高遠城の敗戦を知った武田勝頼は諏訪上原城から退いて天目山で自害し強大を誇った武田氏は滅亡した  南北朝時代の高遠氏から始まり武田氏・毛利氏・京極氏・保科氏・鳥居氏・内藤氏と変遷 城の原型は武田氏に使えた山本勘助の縄張りと伝える
左 保科正之・生母お静と三体地蔵の碑 高遠町歴博物館敷地内 伊那市高遠町東高遠457 真ん中の地蔵は金剛宝・金剛憧・金剛願の三体で正之の大願成就を願い生母お静が江戸目黒にある成就院に奉納した同一のものものを縮小し建立したもの お静は2代将軍秀忠の乳母付き侍女として江戸城に奉公していたが堅物秀忠がお静とたった一度の浮気をしてできたのが正之だ だが正室お江(信長の妹お市の方の三女)は嫉妬深くその悋気を恐れてた周りの者がそっと高遠城の保科正光公の養子に出したので母子ともに高遠に居住した 7歳から26歳まで高遠におりその後最上藩から会津藩藩主となり名君として会津の基礎をつくりさらに異母兄3代将軍家光を支え徳川幕府の土台を築いた
左端 お静の方像 秀忠の子を懐妊したが側室とは迎えられずに信州高遠預かりとなる 中左 保科正之像 彼は養父正光亡き後信州高遠藩主を勤め後に出羽山形藩主そして陸奥国初代会津藩主会津松平家の祖となる 異母兄家光から絶大な信頼を得その息子4代将軍家綱をも補佐した名君である 中右 高遠町歴史博物館 伊那市高遠町東高遠457 実はこの会館内に絵島囲み屋敷が展示されているが本日は休館日でした 右端 高遠さくら悲恋の詩碑 桜名所の高遠城祉 300余年の歴史を刻む 古木滴る絵島の泪 逝けば帰らぬ この世の定め 桜散れ散れ 心のままに 
上 江戸中期 江戸城大奥大年寄りで7代将軍家綱の生母月光院に使える大奥女中絵島の墓地と像  蓮華寺境内  その大奥の中枢にいる絵島が歌舞伎役者生島新五郎の舞台見物の帰り道大奥出入りの呉服問屋や多くのお供を連れて役者生島を相手にお茶席で当時のスターに時間も忘れて話に花が咲き門限時間を過ぎての大スキャンダル事件に発展した いわゆる絵島生島事件 この事件で1400人が処罰され絵島がここ高遠・生島は三宅島へ・呉服問屋主人は八丈島へそれぞれ遠流・歌舞伎座山村座は廃座・絵島の兄は斬首という見せしめ粛清だった 大奥の日々の息苦しさからの一時の息抜きに過ぎない気の毒な事件であった  浮世には また帰へらめや 武蔵野の 月の光の 影もはづかし  絵島 
 
左 絵島の墓地 妙法山蓮華寺 伊那市高遠町長藤的場105  右 絵島囲い屋敷 高遠町歴史博物館内(当休館につきネットより拝借) 彼女は28年間幽閉された 屋敷全体が板塀で目隠しされ板塀の上には鋭く尖った忍び返しあり四六時中見張りの武士が眼を光らせていたという 食事は朝夕二度の一汁一采で手紙禁止の座敷牢生活だった
 左 史跡 絵島囲い屋敷碑(休館中のためネットより拝借) 右の石碑には絵島囲い屋敷由来の碑               右  伊那市春日山公園からの伊那市内展望  伊那市西町6041-2
 
 上3点 伊那の勘太郎碑    伊那市春日山公園内    勘太郎月夜唄碑  �♬ 影か柳か 勘太郎さんか 伊那は七谷 糸ひく煙り 捨てて別れた 故郷の月に 偲ぶ今宵の ほととぎす  昭和18年(1948)東宝映画 伊那の勘太郎 の主題歌  歌 小畑実・作詞 佐伯孝夫・作曲 清水保雄  ヤクザ者の勘太郎が水戸天狗党に加わって勤皇運動の仲間入りをする股旅物のストーリー
国指定史跡 日本四大関所の一つ 木曽福島の関 長野県木曽郡木曽町福島  左 旧中山道木曽町入口  中 木曽福島関所跡の碑  右端 木曽川と中山道の狭い谷に木曽町はある 島崎藤村の夜明け前の冒頭文そのままの町だ 『木曽路はすべて山の中である あるところは岨(そば)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の崖であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入口である  一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いている』 この文章に木曽路のすべてが語られている
上2点 福島関所資料館 御覧のように関所跡は現在の旧中山道よりさらに山際で一段と高いところにありその道幅は極めて細く 夜明け前の冒頭文を彷彿させ当時の中山道の困難さがわかる  『入り鉄砲に出女』と言って関所では江戸を離れる大名の妻子と江戸に持ち込まれる鉄砲を特に厳重に取り締まった
 
左 20年前の資料館  右2点 高瀬家資料館 明治の文豪島崎藤村の姉の園が嫁ぎ『小説家』のモデルで夜明け前の中の一節にある植松の家はこの高瀬家の事でありお粂は園の事であり小説家の中ではお種として登場している 現在も高瀬家の子孫の方が生活していて当時の資料・品物を維持管理している
 
 左 日義村指定文化財 日照山徳音寺山門 木曽郡木曽町日義124-1 馬上の巴御前の像のあるこの寺の山門は木曽義仲24代の孫木曽義陳の発願により享保8年(1723)に建立されたもの云々・・・ と説明板にる  中 徳音寺山門  右 日照山徳音寺
左端 騎馬上の巴御前像  中左 巴御前像碑文  冒頭文は 駒のさばきも 鮮やかに 陣立て原に 風騒ぎ 木曽義仲に 我が??? 巴御前の胸騒ぐ云々・・・とあるがあはとよく読めません  中左 つらぬき意地 の立札 だがこのあとは文字が薄くて詠めませんでした  右端 義仲館 木曽郡木曽町2901 徳音寺の隣にある 義仲と巴を後世に伝え語り継ぐ資料館  早朝のため閉館中でしたが義仲と巴の手紙のやり取りもあるとのこと
左2点 義仲館前の義仲・巴の像      右 木曽義仲旗挙幡宮  木曽郡木曽町日義2156  義仲公が13歳の元服したときこの地に館を建てた地という 治承4年(1180)以仁王の宣旨を受けて千余騎の兵をもって旗挙げしたところという
 
 徳音寺境内の木曽義仲の墓地  長野県公式観光サイトより拝借 傍らには母小枝御前・巴御前・今井兼平・樋口兼光の墓もある  中 木曽川挽歌詩碑 右 木曽節発祥地の碑 徳音寺前
左 萬松山興禅寺 木曽郡木曽町福島5659 木曽義仲をはじめ開基木曽信道や木曽義康・義昌親子の墓がある 永享6年(1434)木曽氏12代の木曽信道が居建てを大桑村須原から木曽福島に遷し木曽義仲の追善供養のために鎌倉建長寺5世圓覚大華を勧請して開山したと伝える  中 種田山頭火句碑 たまたま 詣でた木曽は 華さかり  右 木曽義仲公お手植え桜2代目 時雨桜 時雨桜
左端 種田山頭火句碑 さくらちり 終えたるところ 旭将軍の墓 後ろに巴の松が見える   中 木曽義仲公の墓碑入口    右端 木曽義仲公墓碑  中央義仲公・左18代義康・右12代道信公  木曽義仲最後の言葉  日来はなにともおぼえぬ鎧が、今日は重ふなったるぞや  所々で討たれんより一所でこそ討死もせめ
 左端 御嶽登山道  中左 正岡子規句碑と歌碑  かけはしや あぶない処に 山つつじ・梯や 水にととかず 五月雨・むかしたれ 雲のゆききの あとつけて わたしそめけん 木曽のかけはし 中右 芭蕉句碑 かけはしや 命をからむ 蔦かづら  右端 梯は向かい側から見てください とある
 
  3点   木曽の梯 

左 じゃらんネットより拝借 上右 ネットより拝借

かつては危ういものの代名詞として古くから歌枕に詠まれ中山道一の難所と言われた所 木曽川の岸壁に数百mにわたって架けられた藤蔓で編んだ梯橋であった 現在は旧国道下の石積みに僅かに街道の面影をとどめるに過ぎない ここは落石が多く中山道三大難所に数えられる危険地帯で勿論当時の蔦橋や木橋は残っていません 現在は国道もバイパス化されているが400年以上前に整備された石垣は残ています