入 間 路 ・大家が原
伊利麻治 東山道入間路 武蔵道 鎌倉街道 東山道武蔵路 於保屋我波良(おほやがはら) 浅葉野

入間路の 大家が原の いはゐ蔓(づら) 引かばぬるぬる 吾にな絶えそね   万葉集巻14-3378
紅の 浅葉の野らに 刈る草の 束の間も 我を忘らすな                万葉集巻11-2763
浅葉野に生える草はすぐに刈りとられてしまうけれどそんなつかの間にも私を忘れないでください
浅葉野に 立ち神さぶる 菅の根の ねもころ誰ゆえ 吾が恋なくに         万葉集巻12-2863
浅葉野に長く根を張った管の根っこのように貴女だけをづっとづっと愛し続けます

 現在の埼玉県入間郡は三芳町・毛呂山町・越生町の3町だけだが古代武蔵国では現在の行政区で言えば川越市・所沢市・飯能市・狭山市・入間市・富士見市・坂戸市・鶴ヶ島市・日高市・ふじみの市等広大な領域を形成していたようだ 東京国際大学坂戸キャンパス正面前の坂戸市教育委員会が設置した歌碑(坂戸市四日市場81-1)に『この地は古来武蔵国と上野国を結ぶ古道伊利麻治』が通っていて平安朝の古書『和名抄『武蔵国入間郡大家原』と記述されている この地が万葉の歌枕に残る『於保屋我波良』と決め長くその名を留めることとした』 と彫られている 又狭山市役所裏庭(狭山市入間川1)にある『いりま道の碑』には『伊利麻治とは武蔵と上野の二つの国府を結ぶ古道に沿うここ入間地方の事と考えられる いりまの地名については早くか日本書紀(720)の中に見えて和名類聚集(940)にも伊麻利と載っているように入間川の集落の起こりは大変早く古くはいりまと呼でいたが後に川の字を加えたと言われる 尚天歴の頃村諸考定むの記述があり入間郡名の出所もこの地名よりと伝えられる  歌の意は
 『入間道の大家が原に生えているいわいづらの様に私の恋いしと思う娘よ!私が手を引くままに切れることなく何処までも離れないでついてきていほしい』
と解される 
昭和29年に町村合併により狭山市となり入間川の町名が次第に薄れていくこの縁の地を万葉の優雅な詩心を讃え香り高い文化の故郷つくりの糧となるように新市庁舎竣工を機に万葉の歌碑し
いりまの名称発祥の謂われれる』と彫られている 時代により呼び名も色々あるようだがいずれにしろ東海道から鎌倉を経て陸奥への東山道へのルートが入間路・鎌倉街道であるようだ 東京湾が往時はずっと奥まで入り込み湿地帯で然も多摩川・隅田川・荒川・利根川等の大河があり群馬県に抜ける方がベターだったに違いない 鎌倉街道は埼玉県内では南部の所沢市から北部の児玉町・上里町・神川町の主に上ツ道 中ツ道 下ツ道の3ルートを指すようだ 大家が原・浅葉野は坂戸市近辺とされる 遠方から限られた時間内で街道碑の在る所を北部美里町から所沢まで歩いた
 上左2つ 旧鎌倉街道碑 児玉郡美里町駒衣付近  右端 史跡笛吹峠と古戦場鎌倉街道 比企郡嵐山町須江 南北朝時代新田義貞討ち死後の正平7年(1352)義貞3男義宗・義興・脇屋義治・北条時行等は南朝宗良親王を奉じて挙兵し鎌倉街道を南下武蔵野合戦にて鎌倉の足利基氏・畠山国清・結城直光・宇都宮氏綱・河越直重足利尊氏軍と戦った 南朝勢は押されて笛吹峠まで撤退し上杉憲顕と合流して体勢回復に努めたが2万対8万に大敗喫し関東での南朝勢力は一掃され足利尊氏は関東を完全に制圧した  
上 鎌倉街道大蔵館  比企郡嵐山町大字大蔵522   仁平3年(1153)に木曽義仲の父・源義賢秩父重隆の娘をめと移り住んだ館跡  当時武蔵国内で大きな力を持っていた秩父氏と義賢が結んだことによって関東で義賢の力が増大することを恐れた兄源義朝は自分の息子義平に館を攻め込ませて義賢を討つ大蔵合戦があった地 このとき駒王丸(後の木曽義仲)は木曽の地へと逃れています 人間の歴史とは争いの繰り返しなのでしょうか源平合戦で戦った両氏が800年の時を隔ててここに一つになり供養されていた なお畠山氏や河越氏は秩父平氏の一族  上中 源義賢公嫡男源(木曽)義仲公供養碑  上右 源義仲公嫡男源義高公供養碑 この近くには源氏三代の供養碑の地がある
 上左端 入間路(巻14-3378)歌碑 入間郡越生町大谷 日本CC13番ホール近くの仲島氏個人宅裏 上中 越生町立図書館前の入間路(巻14-3378)歌碑 入間郡越生町越生925-1
東京国際大学坂戸キャンパス前の巻14-3378入間路歌碑と由来板  坂戸市四日市場 1-81 旧大家郷付近一帯
 
上左 坂戸西高校校歌碑(東京国際大学隣) 坂戸市四日市場325-3  校歌の一番には 『白雲の秩父の嶺はるか』とか『武蔵野に若草萌えて』 2番には『高麗川の歴史ゆかしく』や『風薫る大家が原に』等の歌枕文言が見える 上中 東部越生線 西大家 坂戸市森戸623-2  上右 鎌倉街道西大家原  坂戸市森戸623ー7 ブルーシートの陰が旧鎌倉街道
上左・中 浅葉野万葉集(巻11-2763)歌碑説明板 土屋公園内の万葉歌碑 坂戸市淺羽野2      上右 淺羽野中学校中庭  浅葉野万葉歌碑 坂戸市淺羽野753-1   
上左 ふじみ野市真名井の湯の前の(巻11-2763)の歌碑 ふじみ野市大井2-19ー1  上中・右 県史跡占肩の鹿見塚歌碑(巻14-3374) 富士浅間神社境内 川越市富士見町21-1
武蔵野に 占へ肩灼き まさでにも 告らぬ君が名 うらに出にけり武蔵野の占部神祇官に鹿の肩焼で占ってもらったまさしくそこに私に名を告げなかったあなたの名が真実現れたの)
上左・中 東明寺川越奇襲夜戦の碑 川越市志多町13-1  河越夜戦とは1546年5月に川越城城主北条家(氏綱3000と関東管領・山内上杉家(憲政)その庶家・扇谷上杉家(朝定)・古河公方足利家(晴氏)の連合軍その他関東諸大名連合80000との間で起こった戦いであり桶狭間の戦い・厳島合戦と並んで「日本三大奇襲戦」の一つに数えられる戦いである 死者13000~16000と伝える  上右 名細の万葉歌碑(巻3-303 柿本人麻呂) 川越市鯨井782 名細第一土地改良区記念碑に 吾等は遠都先祖よりこの土地を継承して報恩感謝を以て努力し愛護しきたり これを後世児孫に伝承す 冀くは時世に順応しつつ長久に保存されんことを と彫られている 名細き 稲見の海の おき津浪 千重にかくりぬ 大和島根は 「名細き」は「なくわしき」で 美しい名高いの枕詞 稲見は兵庫県印南郡高砂市から明石市にかけての平野の呼び名 ここ『名細』の村名の由来 「新名ヲ名細ト名付ハ、該村タルヤ数ケ村ノ合併ニシテ 何レモ小村ニシテ敢エテ大小ナキニヨリ、大村名ニ採ルカ又ハ参互折衷スル能ハザレバ、歴史上著名ナルカ又ハ該村々ニ於イテ保存置キタキ名称之アレバ 古老等問イ申ヘキ旨 戸長ニ命ジタルニ、該地方ヲ賞賛シタル古歌ノ枕詞ヲ取リテ 斯クハ名付度旨申シ出タリ」 (川越市合併史稿)  
上左 霞野神社と鎌倉街道 日高市女影444  上中 県指定史跡女影ヶ原古戦場跡の碑 霞野神社の裏  中先代の乱の地 鎌倉幕府再興を賭けた北条時行足利新政権に反旗を翻した事件で信濃に潜伏していた北条時行(14代執権北条高時の遺児)が建武中興政権に対し反旗を翻し甲斐・上野に進出し武蔵国まで侵入した 鎌倉は足利直義と渋川次郎大輔義季・岩松兵部経家等を主将にして建武2年(1335)ここ女影ヶ原で対峙したが北条時行に破れる大きな合戦になった所  上左 鎌倉街道上道と碑 日高市高萩 小畦川隣 埼玉では所沢から狭山・入間川を渡り日高・大矢沢・高萩・女影・をたどり西大家・毛呂山・鳩山・児玉から上州高崎への道 かつて新田義貞軍が菅谷から女影を通り入間川を越え小手指原などで鎌倉軍と戦った上ツ道 
上左 鎌倉街道上ッ道碑   上中 入間路の万葉歌碑表面 JAいるま野高萩南農産物直売所前  日高市大矢沢51    上左 裏面の入間路の説明文
 
上左端 狭山市役所境内入間路の万葉歌碑 狭山市入間川1-23-5 伊利麻路=入間路ということで入間へ続く路 入間の中の路のどちらともとれる 7世紀ごろに武蔵国の郡として成立後交通路として古代の官道東山道武蔵路の枝道「入間路」が整備されていた 上州と鎌倉を結ぶ鎌倉街道がそれだという説があるようだ 具体的な場所はわからないがこの歌の歌碑は入間郡内に結構あり中世以降「入間路」は鎌倉街道上道の本道となった 上左中 狭山八幡神社新田義貞駒繋ぎの松 狭山市入間川3-6-14 今から700年ほど前の元弘3年(1333)5月鎌倉の北条高時を討つために挙兵した新田義貞は5月10日ごろに所沢の小手指ケ原で北条軍と戦った そのとき新田軍は入間川の徳林寺を仮の宿と定め源氏ゆかりの八幡宮へ自ら進んで戦勝を祈願そのときに愛馬を繋ぎだのがこの松の木 現在は切り株跡と何代目かの新しい松である  上中右 清水冠者源義高終焉の地 狭山市入間川3-35-9 清水八幡神社には清水冠者義高(源義高)が祀られている 義高は木曽(源)義仲の嫡子源頼朝の人質として鎌倉にいてその娘大姫の婿になっていた ところが父義仲が頼朝に討ち果たされため義高は従者6人とともに祖父義賢の地大蔵館や畠山重能の菅谷舘のある現在の嵐山町をめざして逃亡したがここ入間川原で追っ手に討ち果たされた 北条政子と大姫はその霊を祀るために入間河原に社を建てた  上右端 影隠地蔵  狭山市柏原204-1 この地蔵が影隠地蔵と呼ばれるのは清水冠者義高が追ってに追われ難を避ける為にこの地蔵の後ろに身を隠したためという 
 上左 狭山茶 入間路は日本有数の茶の産地 上中 入間川市役所前の茶畑の庭には迫力があります 入間川市豊岡1-16-1 上右 芭蕉句碑 白鬚神社境内 入間市野田562 都出でて 神も旅寝の 日数哉   父母の しきりに恋し 雉の声(境内には見つからず)
 上左 県史蹟小手指ヶ原古戦場跡 所沢市北野2-12-4 上右 古戦場碑 『古武将の御魂祀れりこの塚を護り通せと先祖より受け 此の塚を壊せし者は忽ちに霊魔を受けて死するやもあり 武蔵野の小手指ヶ原古戦場 月の光は変わらざりけり』と刻まれている 元弘3年(1333)5月8日上野国新田庄の新田義貞軍150騎が鎌倉幕府打倒のためこの鎌倉街道を南下ここ11日には小手指ヶ原に至ると20万騎に膨らんでいたが決着はつかずが翌日新田軍が総攻撃をかけ鎌倉軍を現府中市の分倍河原まで追い返した地  車の木の後ろが白旗塚   
上左端 白旗塚 新田 義貞がここに陣をはり源氏のシンボルの白い旗をかかげた伝承が残る場所 上中左 板東第一北野天神社 所沢市小手指元町3-27-28  上中右 後醍醐天皇第三皇子宗良親王遺跡と歌碑 天神社境内 君のため 世のため何か おしからむ 捨てて甲斐ある 命なりせば 南朝の戦う親王は新田義貞等と白旗塚に陣を張り北朝足利鎌倉軍と小手指ヶ原合戦で指揮を執った その時陣の士気をを鼓舞した歌  又境内には所沢出身の俳優左 木全の碑もある 常道の芸では先が知れてる されば逆遠き苦難の道を求めん  上右端 前田利家献栽の梅 大納言梅 境内 頼義 義家・頼朝・尊氏等板東武士の信仰熱いこの神社に菅原道真の末裔という前田利家が秀吉の小田原攻めの際に立ち寄り梅を植えた伝説がある 
上左 入間野神社と鎌倉街道上ツ道 狭山市南入曽640-2  上中 久米川古戦場の碑 所沢市松が丘1 狭山丘陵東端の八国山一帯を鎌倉時代久米川宿といった 上野国と鎌倉を結ぶ政治的・経済的に重要な交通路鎌倉街道上の道の主要な宿駅だった 元寇3年(1333)5月11日小手指原合戦で鎌倉軍を破り翌12日南下した新田義貞と鎌倉軍との第2戦がおこなわれたのがこの辺り  上右 将軍塚 久米川古戦場碑の後ろの小高い森が八国山 元寇3年(1333)鎌倉幕府打倒と上州で挙兵した新田義貞は鎌倉街道を南下し小手指ヶ原で幕府軍と合戦し東京府中市の分倍河原の合戦で勝利した このとき久米川合戦に勝った新田義貞がこの地に一時逗留し八国山に塚を建てたことから将軍塚呼ばれる 江戸時代の『新編武蔵国風土記稿』には『此処に一ツノ塚アリ 是ヲ将軍塚ト呼ブ』とある 
上左 長久寺門前 旧鎌倉街道碑 所沢市久米411 上中・右 所沢市立南陵中学校前 市指定遺跡東山道武蔵野路(入間路) 所沢市久米1470-1 平成元年(1989)東の上遺跡の一つである南陵中学校校庭から古代幹線道路のひとつ大規模な道路跡が発見された 幅12m規模の一直線に伸びる道路で道の両脇はには側溝が掘られ中央部は突き固められ極めて計画的工法で造られていた事が判明した武蔵国から上野国へつながる重要な官道(国道)で在ることが判明 
旧鎌倉街道碑左から  所沢市南小学校前 所沢市南住吉18-29 新光寺前 所沢市宮本町1-7-3  所沢中学校前 所沢市けやき台2-44-1 西富小学校前 所沢市岩岡町676-1 
 上左 県営所沢航空記念公園 C-46t中型型輸送機  所沢市並木1-1-1 米国カーチスライト社が1940年から3180機を製造した当初は軍用輸送機として使用されたが戦後は民間旅客機として利用された 上中・右 日本航空機発祥の地記念館 明治44年(1911)4月所沢に日本初の飛行場が開設された事による 4月5日徳川好敏大尉アンリ・ファルマン機で約1分飛翔した 続いて日野熊蔵大尉ライト機で3分30秒の飛行時間を記録
   
上左 川越サツマイモ発祥の地碑 所沢市南永井439-7 史蹟南永井さつまいも始作値之碑 南永井村の名主を務めた吉田弥右衛門とその子孫が書き記した覚え書きに甘藷の栽培が開始された 貴重な記録『弥右衛門覚え書(市指定文化財)』 寛延4年(1751)弥右衛門は息子弥佐衛門を上総国志井津村(現市原市)に種芋の買い付けに生かせた 以後永井村のさつまいも栽培は周辺の村々に広がった そしてこの地方一帯で栽培されるようになり 『富じゃとうなす・永井じゃさつま・日比田・亀が弥まくわうり』と唄われた サツマイモは新河岸川で江戸江運ばれた集散地である川越の名を取って『川越いも』の名で全国に知られるようになった   上中 文化財保存の辞 本県の甘藷栽培の起源は二百十年前吉田さんの祖先のこの地に始作普及したもので当時の記録は次の通である  さつまいも造り始めの事   寛延四年二月廿八日江戸木挽町川内屋八郎兵衛殿世話にてかつさ国志井津村長十郎方へ弥右衛門参りさつまいも二百二而代五百文買落銭其壱分二朱懸り申し候  四代名主 吉田弥右エ門  昭和三十年一月  保存管理者 柳瀬村