堀 兼 の 井
武蔵野の 堀兼の井も あるものを うれしく水の 近づきにけり          千載和歌集  藤原俊成
あさからず 思へはこそは ほのめかせ 堀金の井の つつましき身を        俊頼集 源 俊頼
くみて知る 人もありなん 自ずから 堀兼の井の 底のこころを          山家集  西行法師
いまやわれ 浅き心を わすれみす いつ堀兼の 井筒なるらん              拾玉集 慈円
上 堀兼の井 堀兼神社境内にある 現在は水は一滴もない 清少納言の枕草子に『井は、ほりかねの井 走井は逢坂なるがをかしき 山の井、さしも浅きためしになり始めけん 飛鳥井、「御水(みもひ)も寒し」と褒めたるこそをかしけれ 玉の井 少将井(せうしやうゐ) 桜井 后町(きさきまち)の井 千貫(ちぬき)の井』とある

左 堀兼神社随身門と鳥居
 隋身とは平安時代以降上皇や貴族が外出するとき警護に当たる人の事で神道では神を守るものとして安置されていて隋神とも書かれる。狭山市指定文化財 

堀兼神社      埼玉県狭山市堀兼
この神社の元々の名は浅間神社です。社伝によれば日本武尊が東征の帰路当地に立ち寄った時に水がなくて困っている住民を見て富士山に遥拝して井戸を掘らせたところ水を得ることができたため浅間社を祀ったのに始まる。
       
              はるばると 思ひこそあれ 武蔵野の 堀兼の井に 野寺あるてふ          貫之集   紀 貫之
              おもかげぞ かたるに残る 武蔵野や 堀兼の井に 水はなけれど          廻国雑記 道興准后
上左 慶安年間に据えられた井磧の碑 川越藩主秋元喬知が宝永5年(1708年)3月に建てたと刻まれている石碑 そこにはこの凹形の地は和歌に詠まれたり書かれたりしているいわゆる「ほりかねの井」だと書かれてる 最後の1行は小さい字でほりかねは『掘り難し』の意だとなっている 但し一番最後に『従俗耳』と書かれていて伝承であって確たるものではないとあるのが面白い
上中 斉藤元埼玉県知事(故人)の撰文に見られる清原三位宣郷の詩碑 頭に『堀兼井』と彫られている
上右 浅間神社 堀兼神社の前身で手前の小さな石碑に『一合目』とあり石碑には景行天皇40年(西暦111)に日本武尊が自ら富士浅間神社を勧請され創建されたとある 
 七曲井    狭山市北入曽
漏斗状に掘られた底に四角の井戸跡が見える

武蔵野には堀兼の井と称される井が数多くあったとされ正確には本当の堀兼の井は定かでないらしい 飲料水を得ることが困難な武蔵野台地では竪堀井戸が発達する近世まで漏斗状に掘り下げて各地に井戸を掘っていたのである 平安中期頃に掘られて江戸時代まで使われていたようだ
  鎌倉街道 狭山市南入曽
七曲井の近くの入間野神社の境内にある鎌倉街道のみちすじの案内板 源頼朝が鎌倉幕府建久2年(1192)を開いてから北条氏が滅ぶ天正18年(1590)まで約400年間


➡武蔵野武士の畠山重忠や新田義貞等の名将が栄枯盛衰の物語を刻んだ道である
下左 入間野神社 その前の鎌倉街道 現県道50号線 この少し先に七曲井がある ここの入曽の獅子舞は県指定無形民俗文化財
下左 高麗神社将軍標 
大観民国民団中央本部寄贈で村々の入り口に建てる朝鮮半島の古い習慣の魔除けで天下代将軍・地下女将軍とある  村を守る守護神とか村と村の境目とか・・・

下中 続日本紀記述の石碑
続日本紀巻三 大宝三年四月乙末条 乙未従五位下高麗若光王姓
乙未、従五位下高麗若光に王の姓を賜う
続日本紀巻七 霊亀二年五月辛卯条 辛卯以駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七国高麗人一七九九遷于武蔵国始置高麗郡焉 
辛卯、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七カ国の高麗人1799人を以って武蔵の国に高麗郡を置く

いかでかと 思ふ心は 堀兼の  井よりも猶ぞ 深さまされる   伊勢集 伊勢
         
         
上2段 高麗神社  
埼玉県日高市新堀
現埼玉県日高市及び飯能市の一部に当たる日高郷は716年に武蔵国高麗郡が設置され中世以降は日高市・鶴ヶ島の全域と飯能・川越・入間・狭山市の各市の一部が高麗郡となった。668年唐・新羅連合軍に滅ぼされた高句麗人が日本に亡命帰化した人達1799人を大和朝廷はこの地に移住させた 703年高麗若光が朝廷から王姓を下賜され(高麗王 コマコニキシ 従五位下))高句麗王族の一人として認められた この高麗若光を祀ったのが高麗神社だ
 現高麗神社宮司は高麗文康氏

 
上左 高麗神社拝殿前には100人前後行列で参拝を待っているのにはちょっとびっくりした
上中 国重要文化財高麗住宅
高麗神社の神職を代々勤めてきた高麗氏の住宅 文久年間(1817)の高麗家に伝わる絵図面には慶長年間(1596~1615年)との記述がある所から17世紀の建物とされている
上右 浩宮徳仁親王殿下見学記念樹
他に三笠宮崇仁親王や皇太子や皇族関係の参拝も目立つ それは李妃方子が元梨本宮家という皇族の方だったせいか つまり李王朝皇太子垠と梨本宮方子(元昭和天皇妃候補)とが日韓合併のための政略結婚の犠牲であったせいかもしれない
左端 駐日大韓民国特命全権大使 金 太智 献木
他に甲 垠秀・李王垠殿下と李妃方子(マサコ)夫妻他数名の大韓民国特命全権大使の献木や鳩山一郎・若槻禮次郎・浜口雄幸・斉藤実・尾崎紅葉等の献木もありそれぞれ総理大臣に上り詰めてるので出世明神とも呼ばれる

2017年9月20日 天皇・皇后両陛下が天皇として初めて私的に高麗神社を訪問された事が報道された 続日本紀には桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であるとの記述からすると現天皇もコンマ以下の朝鮮の血が流れていることとなるから参拝されるのも一理あるでしょう 日本と韓国とはずっと近しい国なのだ