箱   根 

箱根に関所が設置された始期は不明だが奈良・平安時代の律令期には箱根峠を経由する箱根路は開設されていて関らしきものも設置されていて足柄山の足柄路と共に関東の防衛に重要な役割になっていた 吾妻鏡にも平将門の乱では将門が箱根に兵を派遣してこれを封鎖することを考えていたとある 又承久の乱では北条義時が御家人からの提案である箱根・足柄の関を固めて官軍を食い止める案を排して軍を上洛させた事が承久記にもあり吾妻鏡と同様な役割を持っていたようだ  明治13年鳥居 忱作詞 滝廉太郎作曲『中学唱歌箱根八里』の越すに越すされぬ大井川はどなたも知ってるがその八里とは意外と不明 八里とは小田原宿から登って箱根の4里と箱根から下って三島宿までの4里の合計8里を指す 箱根八里は日本遺産です

足柄の 箱根飛び越え 行く鶴の 美しき見れば 大和し思ほゆ 
       万葉集 巻7-1175
足柄の箱根の山を飛び越えて行く鶴 その鶴が羨ましくも都をめがけて飛んでゆくのが見える あぁ、妻のいる大和が懐かしくて仕方がない

足柄の 箱根の山に 粟蒔きて 実とはなれるを 粟無くもあやし        万葉集 巻14-3364
足柄の箱根の山に粟を)蒔いて 見事にに実ったというのに粟がないとは一体どういう事なのだ

足柄の 箱根の山に 延ふ葛の 引かば寄り来ぬ 下なほなほに       万葉集 巻14-3364
足柄の箱根の山に延いまわる葛を引っ張るように 俺が引っ張ったら素直にこっちへ来てくれよね

足柄の 箱根の嶺の にこ草の 花つ妻なれ 紐解かず寝む           万葉集 巻14-3370
お前さんが箱根山の嶺に咲いている「にこ草の花」のように手が届かない 聖女の花妻ならば仕方がないがそうでないのだから共寝しょうよ 何で嫌だと言うのかねぇ?
上記万葉集は偶々ネット上に現代語訳が載ってましたのでそのまま記載

箱根路を わが越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ     金槐和歌集 源 実朝 
たまくしげ 箱根の海は けけれあれや 二山かけて 何かたゆたふ       金塊和歌集 源 実朝
たまくしげ 箱根の山の 郭公 むかひの里に 朝な朝な鳴く             金塊和歌集 源 実朝
ながめやる 箱根の山を たがために あくれば雪の ふりおほふらむ       散木奇歌集 源 俊頼
ふたつなき 心にいれて 箱根山 祈る我身を むなしからすな                相模集 相模
ちらさじと 置くらむものを 箱根山 あくればこほる 玉笹の露                  源 顕仲
ともしとて 箱根の山に 明けにけり ふたよりみより 逢ふとせしまり       千載和歌集 橘 俊綱
箱根山 ふた子の山も 秋深み 明け暮れ風に 木の葉散りかふ          曽丹集 曾根好忠

朝帰り 敷居か箱根 八里なり                  誹風柳多留
箱根こす 人もあるらし 今朝の雪             笈の小文 芭蕉 

たま櫛笥 箱根の山の みね深く 水海はれて すめる月かげ           夫木和歌集 慶融
わがすゑの 代々に忘するな 足柄や 箱根の雪を わけし心を       新葉和歌集 後村上天皇
箱根山 さかしき道に しく板の いたく苦しき 旅の道かな             夫木和歌集  為道
   
左・中  関東総鎮守 箱根神社 足柄下郡箱根町元町86 鎌倉幕府の篤い崇敬と保護を受け伊豆山神社と共に「二所権現」に指定され三島大社と併せて「二所詣(三社詣)」が行われるなど後北条氏の時代まで特に武家たちの信仰を集めた  右 九頭龍神社 九頭龍神社は古来箱根権現御手洗の池と呼ばれていた芦ノ湖の守護神である九頭竜大神をお祀りする神社
左 源頼朝三匿海運の印籠御守  頼朝が石橋山での旗揚げに際し当所箱根権現の別当行実僧正より授けられた御守によって三度の大難を免れたと言う尊い御守   中左 源頼朝三度大難を免れるの記の碑 記述には 源賴朝は 治承四年八月石橋山の旗挙げのとき手兵僅かに三百をもって 三千余騎の敵兵と決戰して敗れたが 箱根山中の峻峰深谷の中を逃れつヽ数日のあいだ縦横無尽の踏破を続けながらよく敵軍の急追を免れたが この間箱根権現社小道地蔵堂土肥杉山の岩窟での三度の危期を脱して奇跡的な九死一生をえて後 遂に平家を倒して武家政治六百余年の基を築くに至った この箱根山中三難の奇蹟は 日頃信仰の篤かった関東総鎮守の当権現の援助とその神霊の加護によること頗る大である こヽにその昔日を追想して碑を建て以て大いに神威を稱揚する とある 中右 曾我神社 箱根神社の稚児であったで曾我五郎・十郎の霊を祀った神社 右 曾我兄弟800年祭 曾我神社造営の碑 

国指定重要文化財箱根の石仏群群 下足柄郡箱根町元箱根 今から約700年前の鎌倉時代後期に造られ国の史跡と重要文化財に指定されている 鎌倉時代には京と鎌倉を結ぶ重要な交通路(鎌倉古道・現在の国道1号線)であり 当時この地は火山活動の残る荒涼とした地形で「地獄道」と呼ばれ旅人に恐れられていた そのため石仏・石塔群を造り旅人の安全を祈願したとの事  左 左二つが曾我兄弟之供養塔 右が十郎の妻虎女  と言われるが地蔵信仰の一種と思われる 基には永仁3年(1295年)12月の銘があると言うので鎌倉時代に設置されたようだ この地蔵講の銘が刻まれた五輪塔としては日本で最古のもの 曽我兄弟は、箱根路登って箱根権現に祈願してから富士山の麓に向かったのだ言います。 中・右 多田満仲(源満仲913?~997)宝キョウ印塔 清和源氏発展の礎をつくった人物 総ての源氏の祖をたどれば満仲にたどり着く 武将で酒天童子退治で有名な源頼光の父 この石塔は近世以降多田満仲の墓と呼ばれるようになったようだがその由来は不明  

左 箱根中央駐車場前の松並木  中左 箱根関所への旧東海道  中右 関所江戸口前の松並木  右 箱根の関所前の掟書 入鉄砲に出女は有名だが箱根関は出女取り締まりが厳重視された
 
左 箱根の関所京口  250年の関所の歴史上死罪になった人はたったの6人しかいない 関所抜けを試みた人は多かったようですがほとんどの人は見つかっても「道に迷った」という名目の藪(やぶ)入りとして追放処分された このあたり厳しいばかりでない江戸の法の人情が感じられる 担当したのは小田原藩士  右 遠見番所からの箱根関全景と芦ノ湖 右が江戸方面 幕府は全国53の関所で中山道の木曽福島(長野)・碓井群馬)・東海道の新居(静岡)と箱根の関を最も重要視した四大関所
 左 広重浮世絵 東海道五十三次之図  狭い谷間を大名行列の編み笠の列がいかにも箱根の険しさを想像させる     中・右 箱根の旧街道の石畳
 
 
左 箱根峠  神奈川県足柄下郡箱根町と静岡県 田方町函南町の県境にある国道1号線 標高846m  右 十国峠  静岡県田方郡函南町桑原1400-20 正面には富士山が見える絶景です その昔伊豆・相模・駿河・遠江・甲斐・安房・上総・下総・武蔵・信濃の十の国を見渡せる事に由来する 現在の静岡・神奈川・東京・長野・千葉の各県です  
左 山頂の実朝歌碑  箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 浪の寄る見ゆ  左中・右中 十国峠へ山頂へのケーブルカー   峠から富士山遠望