稲村ヶ崎・美奈能瀬川 (水無瀬川・稲瀬川)

稲村ヶ崎と言えば新田義貞です。 1333年5月8日後醍醐天皇の勅令により群馬県新田郷で旗揚げし氏神生田神社で戦勝祈願をした。南は海 東北西の七つの切り通しの山に囲まれた鎌倉は守りが堅く攻めがたく突破口が見つからない。そこで義貞は稲村ヶ崎に廻り『八幡大菩薩 この潮引かせ給え・・・・』と念じ剣を海に投じました。 すると潮が引き始め海上から鎌倉を攻め入り執権北条高時一族郎党は東勝寺で自害し鎌倉幕府を滅ぼしました  という史実に因むものです。 近くにある腹切りやがぐらの洞窟では870人が絶命したと伝える。

童謡 鎌倉
七里ヶ浜の 磯づたい 稲村ヶ崎 名将の 剣投ぜし 古戦場
極楽寺坂 越えゆけば 長谷観音の堂近く 露座の大仏おわします
この唱歌は総て鎌倉の名所旧跡で8番まである

万葉集の中に「鎌倉の美奈 能瀬河」と書いて あるのはこの川のこと。 源頼朝の妻の政子が1180年 10月の初めての鎌倉入りの 時良い日柄に入る ため数日の間この 川辺の民家に滞在している。また頼朝は1184年に弟 の源範頼が平家を 討つために出発するのを見送 ったり1185年に亡き父源義 朝の遺骨を出迎へ たのもこの川辺です。 1333年に新田義貞軍の大将大舘宗氏この川 辺にて討死したのは有名この小さな川だが多くの物語が秘められている

ま愛しみ さ寝に我は行く 鎌倉の 美奈能瀬川に 潮満つなむか       万葉集 巻14-3366
鎌倉の 見越しの崎の 岩崩(くえ)の 君が悔ゆべき 心は持たじ       万葉集巻14-3365
見越しの崎=稲村ヶ崎?or小動崎?
剣太刀 とぎし心は わたつみの 神も哀れと うけやしつらむ              三条実美
鎌倉の 夜のやまおろし 寒ければ 美奈能瀬川に 千鳥なくなり            賀茂真淵 
 
  左 江島・七里ヶ浜方面からの稲村ヶ崎                    右  鎌倉・由比ヶ浜方面からの稲村ヶ崎  道路は国道136号線
 
上左 稲村ヶ崎碑 稲村崎碑は大正時代に鎌倉町青年会によって建てられた史跡碑・旧跡碑 かながわの景勝50選にも選ばれている 稲村ヶ崎にあり晴れていれば江ノ島や富士山が一望出来る絶景スポットに建っている 碑には『今ヲ距ル五百八十四年ノ昔元弘三年五月二十一日新田義貞此ノ岬ヲ廻リテ鎌倉ニ進入セントシ金装ノ刀ヲ海ニ投ジテ潮ヲ退ケンコトヲ海神ニ祷レリト言フハ此ノ處ナリと彫られている 左中 史蹟稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地碑 上右 黄金の剣を海の八幡大菩薩へ奉納する新田義貞像 こは群馬県の新田一族の氏神である生品神社前(太田市新田市野井町645)にある 右上 道路開削記念の碑   昭和13年頃に県道片瀬鎌倉線開削工事が行われ稲村ヶ崎が分断され国道136号線が出来た
 
 左 明治天皇御製の碑 投げ入れし 剣の光 あらわれて 千尋の海も くがとなりぬる  中 稲村ヶ崎碑 七里ヶ浜・江島・富士山が綺麗に見える絶景ポイント 右 西田幾太郎博士歌碑  七里濱 夕日漂う 波の上に 伊豆の山々 果てし知らずも   善の研究で有名な西田氏は石川県生まれ 学習院・京都大学を歴任後昭和8年ここ稲村ヶ崎に主に夏と冬に居住し昭和20年6月7日に没するまで過ごした
 遭難のブロンズ像 1月23日は「真白き富士の嶺の日」 明治43年(1910)1月23日、神奈川県の逗子開成中学のボート部の生徒等12人の乗ったボートが遭難 七里ヶ浜で全員溺死 遺体操作には5日もかかった この事件は社会的事件として新聞で大々的に扱われた 2月6日同行校庭で大追弔会が開かれ12人の霊を弔った 式後、この悲報に接した姉妹校・鎌倉高女の三角錫子教諭が作詞した 作曲はアメリカのインガルスによる 歌題は七里ヶ浜哀歌ともよばれたが次第に真白き富士の嶺とも呼ばれるが当初の富士の嶺は富士の根である 遭難者12名中の1名は小学生で氏名は徳田兄弟 その兄が弟をしっかり抱きかかえたままの姿の遺体で引き揚げられた それモチーフにしたのが上のブロンズ像である この事件悲しき美談として語り継がれるが重大なルール違反があった事が原因である事に注意すべきだ
   
 左 学校法人逗子開成学園 逗子市新宿2丁目5-1 神奈川県下では最も歴史の古い私立男子校で完全中高一貫校の進学名門高校で現在は高等学校からの生徒募集を行わない   校内に昭和26年創立60周年にあたり遭難者12名の氏名が彫られた碑が建立された  正門を掃いた右手にある碑3には 一番の歌詞がほられているていてその手前に折れたオールのモニュメントがある
 
 真白き富士の根の木彫りの 歌詞 逗子開成学園本館入り口ロビーにある 確かに嶺は根になっいて作曲者はガードンと彫られているがこれは日本の作曲家堀内敬三の見誤りで正式にはジュリマイア・インガルスある  右 いのちの碑 本館体育館前には山岳部遭難事故を追悼して「いのちの碑・山の頂を見上げる少年のレリーフ像」がある 6人が犠牲となった山岳部の八方尾根遭難事故は平成2年(1980)12月のことである
 
 左 稲瀬川(美奈能瀬川)の碑  鎌倉市長谷2-8-8  碑文 万葉に 鎌倉の美奈能瀬河と あるは 此の河なり 治承四 年(1180)十月 政子鎌倉に入 らんとして来り 日並の都合 により数日の間此の河辺の民 家に逗留せる事あり 頼朝が 元暦九年(正しくは元暦元 年:1184)範頼の出陣を見送り たるも 正治元年(正しくは 文治元年:1185)義朝の遺骨を 出迎へたるも共に此の川辺な り 元弘三年(1333)新田義貞 が当手の大将大舘宗氏の此の 川辺に於て討死せるも人の知 る所 細き流にも之に結ばる 物語少なからざるなり 大正12年5月建立 碑の後ろは七里ヶ浜の海岸である 中 現在の美奈能瀬川 今となってはこの細流の河畔で新田義貞軍大将の大館宗氏が戦死した 右 みなのせばし 右側の国道135号線は江島・七里ヶ浜・由比ヶ浜・鎌倉沿いを走る国道135号線で観光ルートのメッカを通る片道一車線のため混雑がひどかった