千 曲 川 千曲川は長野県・埼玉県・山梨県の3県の境にある甲武信(こぶし)岳(2475m)が源流で佐久・上田の盆地を経て長野市の善光寺平で支流犀川と合流(川中島)して北流し飯山盆地を経て新潟県に入り信濃川となり日本最長の川となる(365m) 川中島で千曲川に合流する犀川だが万葉集や五木ひろしの歌のおかげで犀川の知名度はイマイチだ しかしその源流は北アルプス槍ヶ岳を源流とし夏山観光地の北アルプス登山口メッカで写真でお馴染みの梓川なのだ つまり新潟県の信濃川は長野県では千曲川であり合流する前の犀川はその上流では有名な梓川なのである そして合流点からの上流を比較すると距離も流域面積も犀川の方が勝るのである 万葉集では『筑摩の川』・明月記(藤原定家の日記)では『ちくま河大河也 国中を廻り流る』 とある ・・・暮れゆけば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛 千曲川いざよふ波の 岸近き宿にのぼりつ 濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む 千曲川柳霞みて 春浅く水流れたり ただ一人岩をめぐりて この岸に愁いを繋ぐ・・・ 島崎藤村 千曲川旅情の詩の一節抜粋 信濃なる 千曲の川の さざれ石の 君し踏みては 玉と拾はむ 万葉集巻 14-3400 君が代は 千曲の川の さざれ石の 苔むす岩と 成りつくすまで 式子内親王集 式子内親王 ちくま川 春ゆく水は すみにけり 消えていくかの 峰のしら雪 風雅和歌集 順徳院 千曲なに 浮き居る舟の 漕ぎ出でなば 逢ふことかたし 今日にしあらずは 万葉集巻 14-3401 水まさる 千曲の川は われならず 霧も深くぞ たちわたりける 万葉集東歌 水まさる 千曲の川は 吾ならず 霧も深くぞ たちわたりける 源 顕仲 信濃路は 今の墾道 刈株に 足踏ましむな 沓はけわが背 万葉集巻14-3399 |
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左2点 千曲川の源流 南佐久郡川上村HPサイトより拝借 右端 犀川の源流梓川と上高地 長野県公式観光サイトより拝借 |
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上3点 日本遺産 信濃国分寺 上田市国分1125 天平13年(741)聖武天皇の国分寺建立の詔よって全国60余州に建立された 信濃国分寺はここ上田に造られることとなり770年ごろには伽藍が整備されたと推定された 然し寺伝によると承平8年(938)平将門と平貞盛の戦いの際に焼失したとされる この寺院の特徴は全国的に珍しい僧寺と尼寺が並列する伽藍配置だったことです |
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上3点 上田市駅前広場 真田幸村騎馬像 上田城築城400年記念 幸村初陣の騎馬像だそうです 大坂夏の陣で死をも厭わず徳川家康本陣まで攻め込み追い詰めた活躍で後世『日本一の兵』(ひのもと一のつわもの』と評され国民的ヒーローとなる 甲賀忍者の猿飛佐助を筆頭にした真田十勇士をひきつれた幸村人気は庶民に広く知られる存在となる 面白いのは生前本人は幸村の名を知らない 本名は信繁で幸村の名は後世の軍記物の中で庶民の間でに広まったもの 家紋の六文銭は 三途の川の渡し賃 を意味しいつでも死をも恐れぬ覚悟を表している |
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真田軍団といえば真田十勇士 上田市内の街角にコミカルなモニュメントがある 左から 猿飛佐助(甲賀流) 霧隠才蔵(伊賀流) 穴山小助(幸村の影武者) 海野六郎(真田の祖滋野家宗家海野氏の出) |
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左から 三好西海入道(怪力無双の大男 60kg鉄棒) 望月六郎(爆弾づくりの名手真田の祖滋野家一族海野氏の出) 根津甚八(滋野家の一族禰津氏の出 幸村の影武者) 三好伊佐入道入道(西海入道の弟) |
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左から 由利鎌之介(鎖鎌の名手) 筧十蔵(元四国蜂須賀家家臣 火縄銃の名手(見つからずネットより拝借) 右 真田石 権威の印に多くの城主は大手門に大石を置く例がある |
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左 合祀された真田幸村墓地(上田城内) 中 真田氏・仙谷氏のあと徳川家康と祖を同じくする松平氏が江戸中期から明治維新まで7代170余年わたり上田城主だった 維新後廃城となった城に有志が初代松平忠山・2代忠照・3代忠周公の御霊をお祀りする神社の建立を申請した 松平氏全城主と併せて当然上田城築城で国民的英雄の真田氏や関が原以降破却された.城を再建した仙谷氏の御霊を合祀し上田城祉守護神とした 右 青年真田幸村公像(神社横) 第一次上田合戦(1585)で指揮を執る青年幸村をモチーフにし左手に十文字槍右手に鉄扇を持ち徳川軍に出撃を命じている姿 |
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国指定史跡上田城 東虎口櫓門 上田城は天正11年(1582)真田昌行が築城 竣工の翌年徳川家康の命に従わなかったため家康の逆鱗に触れ大久保忠世・鳥居元忠他8千の軍の攻撃を防ぎ、さらに慶長5年(1600)豊臣方の上田城の昌行・幸村親子は中山道を関ケ原合戦にむかう途の中徳川秀忠が3万8千軍勢で攻めたが落ちず関ケ原合戦に不参戦させることで上田城の名声が一躍全国に広がる |
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東虎口櫓門 左 南櫓 右 北櫓 |
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上3点 真田幸隆・昌幸菩提寺 長谷寺 上田市真田町5029-3 森の中で木も玉垣も墓石も同系色でしかも木陰で見分けがつきにくいが中央の碑が幸隆 左の小型の碑が幸隆夫人 右の碑が昌幸の墓石 右端が真田幸村(信繁)公の供養塔 戒名は大洸院殿月山傳心大居士 とある |
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上 真田家氏神 山家神社 上田市真田町長4473-ロ2 延喜式内社 真田氏をはじめ代々の藩主より崇拝された 加賀から白山社を勧請したので白山様とも呼ばれる 右端は山家神社の大鬼瓦 |
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左2点 真田神社 山家神社境内 明治時代になり300年前の旧恩に報い後世にその威徳を伝えるべく真田氏発祥の地 旧長村 に真田四君の神霊を祀る神社が創建された 祭神は真田幸隆・昌幸・信幸・幸村(信繁)公 中左 真田神社の鬼瓦 右2点 川中島古戦場 雨宮の渡 千曲市雨宮395-12 川中島合戦で妻女山に陣を張る上杉謙信が武田信玄の啄木鳥戦法を察知し夜陰に乗じて千曲川を渡河した所 凡そ500年も前のことであり現在川筋が数百m変わり千曲川は見えず住宅地である |
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頼山陽詩碑 鞭声粛粛(べんせいしゅくしゅく) 鞭声とは馬の鞭の音のこと 粛粛は静かで厳かな様子 謙信が信玄気づかれる事なくあくまで静かにしかも着実に千曲川を渡る作戦の様子 |
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左 千曲川万葉公園の碑 千曲市上山田下川原 千曲川堤 中 万葉公園案内図 御覧のように公園内には21基の万葉集歌他詩碑・句碑がある 時間的にとても回り切れないので数基のみ掲載 右端 万葉歌碑 巻14-3400 信濃なる 千曲の川の 小石(さざれいし)も 君し踏みてば 玉と拾はむ |
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左 万葉橋からの千曲川 右 五木ひろし 名曲千曲川の歌碑 千曲市上山田温泉2-4 第17回日本レコード大賞最優秀歌唱賞他多数の賞を獲得 現在NHK信州名曲アルバムに選曲 |
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左端 わが心 慰めかねつ 更科や 姥捨山の 照月を見て 古今和歌集 中左 岩走る 垂水の上の 早蕨の 萌え出る春に なりぬけるかも 万葉集巻8-1418 中右 中麻奈に 浮き居る船の 漕ぎてなば 逢ふこと難し 今日にしあrずは 万葉集巻14-3401(中麻奈は不明ながら千曲川の説あり) 右端 み薦刈る 信濃の真弓 我が引かば 貴人さびて 否と言はむかも 万葉集巻2-96 久米禅師 み薦刈る 信濃の真弓 引かずして 弦作るわざを 知ると言はなくに 万葉集巻2-97 石川郎女 |
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左 千曲市上山田温泉市街と中央の河がが千曲川 右の橋が万葉橋 右 延喜式内社 佐良志奈神社 千曲市若宮2-イ |
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上5点 重要文化財 延喜式内社 水上布奈山神社 千曲市戸倉1990 |
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