春満開の浮島 周囲僅か150mぐらいとか
 浮島神社 これほど有名な神社だけれど式外社なのである 主祭神は奥鹽老翁神・奥鹽老女神 の二神で如何にも塩釜らしい神様だ   浮嶋神社は別名で融神社ともいい源 融を祭祀神としているのも納得である 彼は陸奥 塩釜 信夫をこよなく愛しそのPRに多大の貢献をした 陸奥国民栄誉賞ものの人物なのだから
  聖武天皇勅願所霊威山宗吽神院 宮城県伊具郡丸森町館矢間 737年(天平9年 浮島
 其の3

 




大江千里は百人一首に
月見れば 千々にものこそ 悲しけれ  わが身一つの 秋にはあらねど
を残している  家持は九州薩摩(46歳)・越中(29歳)・陸奥(67歳)と不運の生涯だがそれを感じさせないのは不朽の名作万葉集のお陰だろう 陸奥で亡くなったのは事実だが其の遺骨の行方は不明である(壱岐に流された遺族が運んだとも言うが実際は何処にあるのでしょうか)
 
  これが有名な浮島 清少納言は 浮島 八十島は島にあらず と云っているが1000年以上も前から島でない事は分かっているが歌に詠むには島であったほうほうがずっと都合のよい名前である 右上下 聖武天皇の勅願により蝦夷撫育の永世勅願所と定め国見山清覺寺と号し開基された寺は多賀城築城後はその護寺になり押関山統奥寺と称したと言う 圧巻は征東将軍(鎮守府大将軍)大伴宿禰家持が度々清覺寺に渡らせられ遂に当所に於いて薨ぜられた伝える そして薨去の後息永主罪あり清覺寺に一家をあげて左遷されたと伝える由緒ある神院なのです 更に993年(延期3年)大江千里の孫の大江朝臣良言が宗吽神院の第一世となる そして当時清流滔々と流れる阿武隈川の下流に位置する宗吽院に何とあの菅原道真公の六女愛娘みよこ姫が輿入れし以来1200年有余連綿として法灯を守り今日に至ると書いてある(こちらの奥様から頂いた宗吽神院由来栞) ➡