夜とともに 袖の乾かぬ 我が恋や 遠島が磯に よする白波   金葉和歌集 源 実朝
  遠島って云っても一体何処にある島なのか地図を見てもさっぱり分からない。歌に詠まれた遠島は実は皆さんご存知鮎川の鯨や陸奥3大霊場(山形県出羽三山・青森県恐山の一つ金華山で有名な宮城県牡鹿半島の事なのです。何故遠島なのかと云うと藩政時代ここは伊達藩の流刑の地、所謂島流しの地だったのです。ことに半島先端の網地島(あじしま)は封内風土記には「流謫罪人之地也」とあるのです地続きとはいえ丸で海の彼方にある遥かな島の様だったのである。確かに21世紀の現在でもリアス式海岸特有の山又山を縫うように走る道路で、まだまだ未開拓の自然が残る別天地なのです。まして1000年以上も前の牡鹿半島は遥か遠流の彼方だったのでしょう。所がここ遠嶋には『流されは只いて食える』と言う古い言葉があるのです。実は流人には藩から一人扶持一人扶持は米一日五合)と木賃代六文が支給されていたのです。侍には二人扶持です。然も目の前の海は世界三大漁場の一つされる豊かな漁場なのでまんざら大袈裟ではないかも知れないのです。話はそれましたがこの『牡鹿』は歴史と共に古いのである。和名抄では『乎志加』と記され『続日本記(737年 天平9年)』では『牡鹿の柵』の名が見え、753年(天平勝宝5年)には牡鹿郡の名が見えるのです。現在の牡鹿郡は女川町と牡鹿町の2町だけだが古代の牡鹿郡は現在の1市(石巻市)9町を占め、陸奥蝦夷の日高見国と接する大和朝廷の重要な国境の郡だったのです。この牡鹿郡出身で古代の東北人つまり蝦夷が到達しえた最高の地位正四位上勲二等近衛中将兼陸奥大国造まで上り詰めた人物がいたのです。747年(天平19年)それはこの地方の豪族の一人で丸子嶋足が当時のしきたりで舎人として都へ出仕していた。753年(天平勝宝5年8月25日 続日本記)には大初位下に任ぜられ出身地牡鹿連の姓を賜るのである。彼は陸奥蝦夷の勇猛果敢さで頭角を現し、奈良麻呂の乱(757年天平宝字元年)では藤原仲麻呂側について功を上げ授刀将曹に昇格、同年8月今度は仲麻呂の乱では孝謙天皇を助け田村麻呂の父刈田麻呂と共に仲麻呂を討って功をたて従7位上から一挙従四位下に昇格牡鹿宿禰の姓を賜った。これは十階級特進と言う異常な出世を果たしたのである。彼は女帝孝謙天皇とその愛人道鏡に気に入られ、その後授刀少将牡鹿宿禰嶋足として相模守を兼任、765年(天平神護元年)には勲二等かつ近衛員外中将に昇進した。その後嶋足は牡鹿宿禰から道嶋宿禰を賜姓したのである。道嶋とは道奥の道と牡鹿半島の嶋の事であるこうして嶋足は中央政府の役人に上り詰め神護景雲元年(767年)には名誉職的な陸奥大国造に任ぜられとともに一族も地元陸奥でそれぞれ重要なポストにつき陸奥一の大豪族となったのである。これは征服される異民族蝦夷が中央政府の高級官僚へと異常な出世を果たした事で記憶されるべき貴重な人物なのです。
(平成15年10月22日)(宮城県の歴史 平凡社 みちのくの古代史 刀水書房宮城県の歴史 平凡社 宮城県の不思議事典 新人物往来社)
サンファンバウデスタ号
         遠島(牡鹿半島