わすれやしにしと ある君達ののたまへるに
陸奥の 玉造江に こぐ舟の 帆にこそいでね 君を恋ふれど               小野小町集(陸奥の玉造)
ひとつして よろずよ照す 月なれば 底も見えける 玉造川                 源 重之
湊入りの 玉造江に こぐ舟の 音こそたてね 君を恋ふれど              新勅撰和歌集(河内の玉造)
薬田の たもとに給ふ あやめ草 玉造江に ひけばなりけり                    藻塩草 恵慶法師
月もすむ 玉造江に あられふり こほりみかける 名に社有けれ             夫木和歌集 藤原 俊成

ここ玉造は古来東西交通の十字路である。732年(天平9年)あの陸奥按擦使大野東人が多賀城から出羽雄勝へ直接抜ける道を開拓した現中羽前街道と東山道とが交差しているところである。玉造の柵 色麻の柵は其の拠点である。そこを流れる玉造郡鳴子町の荒雄岳(984m)山中に源を発し鬼首 鳴子町 岩出山町 古川市 涌谷町と大崎平野を斜横断して、北上川に注ぐ江合川は中々魅力的川なのです。別名荒雄川(荒らしい男 勇敢な男 丈夫である)と呼ばれるが、古代地名をとった玉造川であり玉造の江の名も情緒がある。この流域には有名無名の歌枕が十指に余るのには驚きです。所がそんな優雅さとは裏腹に、ここは古代蝦夷と大和朝廷とがこの暴れ川を挟んでその存亡をかけた地域でもあるのです。だからこの辺りには玉造柵 玉造騫 色麻柵 新田柵 伊治城 中山柵 かくべつ城 桃生柵 営岡(栗原 田村麻呂陣立ての地)天平五柵が目白押しに並んでいるのである。又ここ陸奥玉造出雲玉造 河内玉造とともに日本三玉造としても有名です。古代それぞれ水晶(石英) 瑪瑙 玉沙の産地だったからです。小野小町は玉造が余程好きだったらしく新勅撰和歌集にも
                湊入りの 玉つくり江に こぐ舟の 音こそたてね 君をふれど
と河内玉造を詠んでいます。更に陸奥玉造の地にも小野の小町伝説があり、玉造小町と小野小町が同人か別人かで21世紀の今日まで延々と議論されているのも何とも大人の童話で楽しいのです。
             花の色は うつりにけりな いたずらに 我が身世にふる ながめせしまに
で有名な絶世の美女が其の歌のとおり晩年老いさらばえて落魄して出羽雄勝の故郷え帰る途中この地に辿り着いたが空しく野垂れ死にしたという。嘗ての恋人業平が東下りで下向してこの地にさしっかた折「秋風の 吹くにつけても あなめあなめ(目が痛い目が痛い)」と語りかける風の声がきこえてきたので廻りを見渡すと目から薄の生えた髑髏が転がっていた。其の髑髏が小野小町と言う。そこで業平は「をのとはいはず 薄おひけり」と下の句をつけ薄を抜いてあげたところ風の音がやんだ と言うのである。渋井と夜烏には小町塚がる。勿論業平は陸奥には来ていないし「あなめ伝説」も各種古典にあるも場所は不明である。岩波文庫の玉造小町子壮衰書には彼女と思われる女性の盛衰が記されていて人の諸行無常を思い知らされる。                                        
   小野小町の墓 古川市新田夜烏
いえ!未だあの君を忘れてはいません 顔にこそ出しませんが今でもあの頃のように恋い慕っています
玉造の江