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         左 能因法師の開基の竹駒寺 
        (江戸時代までは竹駒神社の別当寺) 竹駒神社より東数百mにある  能因は出家前は橘 永トと云ったが恋人の死が出家の動機らしい 彼の歌に 
         年を経て つれ亡き人を 恋ふる身は  
                 涙の河の 身を尽くしかな 
         黒髪の 色かはるまで なりにけり  
                つれ亡き人を 恋わたるとて 
         恋わたる 涙の河の しがらみは  
              たまづきばかり みるまなりけり 
        とあり彼は相当落胆したらしい 橘系累は則光(陸奥守・清少納言の夫) 季通(則光の子) 道貞(陸奥守・和泉式部の夫) 為仲(陸奥守) 末春(義経を秀衡に紹介した金売吉次と言う? 橘次つまり橘の次男の意味というが定かではない)等陸奥との関りが深い 能因も2度陸奥を訪れている  岩沼市桜1丁目 
        右 玉前の柵跡? 
        岩沼市阿武隈川左岸の自然堤防上の立地にあり東山道と浜街道の合流点にあり平安時代の延喜式に東山道の駅家として玉前柵(駅家)の名が見える この遺跡からも古代の遺物が出土していて玉前柵跡と推測されている 現在もこのあたりは玉崎と呼ばれている 
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